価値観とか
価値観の違いという問題において、
「みんな理解し合おうとするべきだ (理解し合えるはずだ)」
「人に合わせようと努力するべきだ(そうできるはずだ)」
などという正論を唱える人たちがわたしにとって、非常に胡散臭く思えるのは何故なんだろう。とえんえん考え続けていたわけです。
こういうのが「お題目」だと思うのは、それが空虚な言葉だからで、「お父さんお母さんを大切にしよう」「地球をきれいにしよう」という標語と同じくらいの無意味さだったりする。
なぜ無意味かと言うと、わたしは世界中の人間と理解し会える日が来るなんてことは永遠にやって来ないと信じているからで、その根拠として、今までの人生で自分の周りのほんのごく一部の人々とも理解しあうことができず、徹底的に拒否されて絶望にうちひしがれた経験も一度や二度ではきかないからだ。
だからどうがんばっても理解し合えない人間というのはこの世の中に大勢存在すると思っているので、無邪気に楽天的に「努力しだいで理解などどうとでもなる」「努力しさえすれば人に好かれる」などという夢を見ている人に出くわすと、どす黒い感情が湧き上がってきて、
「この世の中に何をやっても理解し合えない人間がいることを思い知らせてやるわ」
という嗜虐的な気分になるのも無理ないではないかと思う。思わないか。
で。いきなり結論だけど。
こういう夢を見ている人たちが非常に胡散臭いのは、「(自分が)みんなを理解したい」「(自分が)人に合わせたい」と思っているわけではなく、実際には「(みんなに)自分を理解してもらいたい」「(みんなが)自分に合わせるべきだ」という本音が透けて見えるせいだ、と思うんだこれが。
そんなに相互理解が大事だと思うなら、黙って片っ端から人を理解して受け容れてやればいいのだ。それができる人間なら確かに、理解者を大勢得ることができるだろう。しかしそれができる人間はごく一握り。口で言うほどたやすくはない。当然わたしにはできない。そもそも理解などはじめからしたくもないような嫌な奴らだって世の中には大勢いる。
わたしのような人間に対して、「すべての人間は理解し合えるものだし価値観は合わせられるものだ」というお題目を唱えることは、大いなるパラドックスである。
「
だったらまずあなたが、『世の中には理解し合えない人間が確実に存在するし、価値観は人それぞれなのではじめから合わない人はもうどうしようもない』というわたしの価値観を完璧に理解し、共感してみろ。話はそれからだ」
とか言ってしまいたくなるわけです。
とか言いつつ自分でそう見せかけようとしているほどには厭世的じゃないよな、と我ながら思った。
要するに「世界は自分に対して母親のように受容的」という類の甘い見通しを抱いている人に出会うと、反動で思考がどす黒く染まるだけなんだろう。
あんまし無邪気なことばかり言ってわたしを刺激しないで下さい。わたしだってもう少し世界に対して甘ったれた夢を見ていたいんだから。

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投稿者 : ナツ at 2001/03/05 | カテゴリー :
心理