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2001年3月12日

メメント・モリ

先週末に法事があった。ばーちゃんの一周忌だ。宗教行事ほどほとんどの人が内心無意味だと思っているのにも関わらず、誰もそれを言い出さないで黙って子々孫々まで続けていく慣習はない。などと今更なことを考えてしまったのは休日なのに早起きさせられた上、坊さんがお経を上げた納骨堂が異常に寒かったのでいいかげん不機嫌だったんである。


母方の家系は浄土真宗なので、お経にも阿弥陀がどうのこうのという言葉が随所に出てくる。が他は意味不明。死んだら意味が解るようになるのかなあ、ばーちゃんもどこか中有でこれを聴いて死を受け容れ、現世への執着を断ち切ってるのだろうか、という天使と、死んだら人間終わりじゃ死者が聴くも聴かないもあるか所詮は生きてる人間の自己満足だわ、という悪魔がずーっと脳内で言い争いをしていたので、お経の後の坊さんの説法もほとんど聞いていなかった。
こればかりは自分が死んでみるまでわからない。


平井呈一という翻訳家がいる。
永井荷風の弟子で、ごたごたがあって文壇を追い出されたため、作家としての道を閉ざされ、仕方なく翻訳で糊口をしのいでいたという不遇の人だが、「吸血鬼カーミラ」などの美文な翻訳を今日読めるのはそのおかげ。訳者が下手だとベタベタの「翻訳小説!」って感じになって怪奇小説も興がそがれるからなあ。


それはどうでもいいとして。この人の言葉だったと思うのだが、「墓」というのはそもそも、死者が怖いので、「生き返ってきませんように」という意味でふかーく穴を掘って大量の土をかけて埋め、重たい石まで上に乗っけて、二重にも三重にも封印したのがはじまりなんだそうだ。


「そうだろうなあ」とわたしも思う。一回忌だ三回忌だ七回忌だって、なんだって親族うちそろってしつこく儀式を続けなければならぬのか、その理由はこれ以外に考えられない。「あんたは死んだんですよ」「死んだんだったら死んだの」「甦ってこないでね」という生者の死者に対する無言のお願いなのだ。
そう言うと母はまたかという顔をして、「故人を偲びながら親族の結束を固めるって意味があるの。こんなことでもないとみんな集まらないでしょうが」とか言っていたが、そんなありきたりな結論はいらないや。みんな、ばーちゃんがこわいんだ。生き返ったら困るから一年目や七年目に「死んでますかー?もう死んでますね。完全にあっちの世界に逝っちゃいましたよね」と確かめずにはいられないんだ。無意味だと思いつつ人間が儀式をやめられないのは深層にその恐怖があるからだ。そうに決まった。


余談。説法の後座敷を借りて宴会となったが、その席で霊感の強い叔母が「納骨堂でお坊さんが話してる間、その左肩のほうに何かいたんだよね」という話をし出した。
「またまた〜」と笑って流していたら、「あ、わたしも見た。何人か・・・」と従妹の一人が応えるではないか。
「そうそう!一人じゃないの!何人かもぞもぞ動いてるんだよね」「おばあちゃんじゃないよね、よその人たち」「はっきりとは見えなくて」「そう、煙みたいなの。じっと見ようとすると見えないけど視界の端で動いてる」「あー、やっぱり他にも見えてる人いたんだ」と、二人だけで盛り上がっている。
「なんだよ〜。わたしらには見えなかったぞ。・・・でも、一人じゃなくて二人もおんなじこと言ってるとなると本当にいたのかなー」と、わたしをはじめ他の親族連中が考え込んでいると、従姉Mも、「左のほうから歩き回る足音がずっと聞こえてたよ。お経の間中。納骨堂にはうちの親族しかいなくてみんな座ってるのに変だなあとは思ってた」とボソリ。
うちのばーちゃんじゃないけど、お経につられて何人か蘇ってきたらしい。


それにしても、わたしゃ本当に霊感ない女だなあと思い知らされたりして。
いいけど。


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投稿者 : ナツ at 2001/03/12 | カテゴリー : 散文的日常
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