日出処の天子
山岸 凉子
自分の作品に対して客観性を保っていなければ全体の構成が総崩れになるので、一歩引いた目線というのは作家・漫画家には絶対に必要だが、客観的すぎて作者がちっとも話に没入していない作品は、えてしてつまらなかったりする。
はったりを効かせて物語に臨場感とリアリズムを出すには、ある程度の感情移入や自己陶酔はあったほうがいい。「こんなこと実際にあるわけがない。バカバカしい」と書いている本人が思ったら、読み手にとってもやはりその作品はものすごくバカバカしいのである。
客観性と登場人物への感情移入が絶妙なバランスを保っている作品、世界観の描写と、心理描写のバランスが見事、という物語が、わたしにはいちばんおもしろい。
前者に偏りすぎると、硬質な劇画になってしまい、人物に感情移入する暇もなく、(作品中の)歴史の流れに押し流されてしまう。神の視点でしか話を読めなくなって、「人間ってちっぽけな生き物だなあ」という感慨で終わってしまう。これには非常に不満がある。登場人物がほぼ記号としての意味しか持たないからだ。(横山光輝の歴史物がこのタイプ)
けど後者に偏ると、話が主人公に仮託した作者の自分語りに終始してしまい、「もう少し周りを見ろよ」「おまえの気持ちはもうわかったから次行け次」「なんつー狭い世界で話が始まって終わるんだ」という閉塞感を感じて終わる。他人の見た昨晩の夢の話をえんえん聞かされるつまらなさだ。ど真ん中の少女マンガをはじめて読む男性の心境に近い。
このバランスに成功している作品というのは、今ちょっと小説では思いつかないんだけど、漫画では「日出処の天子」を挙げたい。
他の歴史漫画、特に同じ聖徳太子が主人公の池田理代子の漫画とか、長岡良子の藤原不比等ものと比べてみると、さらにはっきりする。後者二つは「ああ、歴史漫画だね」としか思えないのだが、日出処の天子は、登場人物が「歴史を語るため・世界観を保つために意図的にそこに配置」されているような感じがしない。心理描写に過不足がないので、全員自分の意志で、必然性を持って動いているうちにいつの間にか話が進んでいるように見える。
「ああ、歴史漫画だからね。ここでこいつがこう動かないと史実に反するもんね」とニヤニヤさせられることが一度もないというのは、凄い。そして歴史の流れに関しては忠実なのに、その他はしっちゃかめっちゃかに史実を無視して想像力の大風呂敷を広げながら破綻しないで終わっているところが凄い。
誰が死んでこの先の歴史がどう変わるか、など、「一応」歴史物だからアウトラインは分かっているのだが、それで安心させられることなどまったくないのだ。先が見えない。恐るべきマンガだとしか言いようがない。
BSマンガ夜話、「花咲ける青少年」の回で、作者である樹なつみについて、夏目房之介がおもしろいことを言っていた。
「この人は、物語が始まった時には、自分の作った箱庭の上から登場人物たちを見下ろしているんだよね。でも次のコマでは、いきなりキャラクターの目線までストンと降りてくる。上からの視点と、キャラクターの中に入り込んでしまった視点との間に、中間の視点がない。だから読んでいるといきなりの視点の変化にとまどう。男の作家にはなかなかできないことだ」
だいたいこんな内容だったと思う。
なるほどと思ったけど、視点の急激な変化などどうでもよくなるほどに、樹なつみのマンガも大風呂敷で飽きさせない。そしてそのおもしろさの根っこにも、客観性と感情移入、世界観の構築と人間の心理描写の絶妙なバランスがある。
そういうマンガや小説をもっと読みたいという、ただそれだけの話なんですけどね。
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