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2001年6月28日

五体不満足

以前、「おしゃれ関係」に「五体不満足」の作者、乙武洋匡氏がゲスト出演していたのを、ちらっと観た。

ちなみにわたしは、この本を実際に読んだことはないので、噂でぐらいしか彼のことは知らない。


聞きしにまさるポジティヴな人だった。強さを誇示しているわけではないのに、強靱な精神力と意志を持っていることが誰の目にも明白なタイプ。

普通なら自分一人のことで精一杯で周りが見えなくなっても仕方のないところなのに、周囲にまったく悲愴感も張りつめた感じも与えない、明るくて澄んだ感じがする。

「自分はこれだけのハンディがありながらこんなにもがんばっているんだ」的な意識が全くないせいだろうと思うが、健常者にしたところで多少の逆境でも自分がまるで悲劇の主人公、みたいな気分になって、その中での努力を他者に評価してもらわなければ意味がない、という自己陶酔的な面が出てくるものだ。そういうナルシシズムや甘えから完全に自由であるためには、相当な意志の力と知性が必要だろうと思う。

というのはありきたりな感想だけども、わたしが「この人はなんて頭のいい人なんだろう」と本当に感心したのは、彼の次のような発言だった。

司会の古館さんが、「好きな女性のタイプをタレントで言うと?」みたいな質問をし、それに乙武氏が「パフィみたいなタイプ」と答えたのだが、その理由として、

やる気のない感じの女の子が好きだから。自分がまったく『がんばっている』人間じゃないので、やる気満々で『がんばってます!』という感じの人が側にいると、ちょっと疲れちゃうんですよ」という意味のことを、冗談めかして言っていたのだ。

彼が何を言わんとしているのか、なんとなくわかった。

  きっと、彼に自分から積極的に近づいてきて親しくなろうとする女の子は、ボランティアとか福祉問題にもかなりの興味を持ち、「ハンディを持つ人は気の毒な人なのだから、健常者である我々が、何か積極的に手助けをしなければならない」という義務感に燃え、責任感が強くがんばり屋ではあるのだが、その義務感や同情心を友情、時には愛情と勘違いするタイプか、でなければ、「この人は自分がいなければ生きていけないんだ」という相手ばかりを常に本能的に求める、いわゆる共依存に陥りやすいタイプか、・・・というパターンが多かったんじゃないんだろうか。

それは、決して対等な友人関係とは言わない。相手の人格に純粋に友情や好意を感じて近づいていくわけではないからだ。

  しかし彼は、「僕の外見ではなく音楽を評価してもらいたい。中味のないビジュアル系と括られるのは不愉快だ」みたいな、どこかのビジュアル系歌手のようなバカっぽい発言はしない。(本当に実力があれば、当然ながら外見がどうであろうといずれは評価されるもんだ。大衆はそこまで聴く耳のないバカばかりじゃない)

ハンディは確かにあるけども、障害者として見るのではなく、僕の人格だけを見て興味と好意を示してくれ!」なんてことを臆面もなく言うには、彼の知性はあまりにも高すぎるのだ。

あるいは、そんなことをわざわざ声高に主張しなくても、自分が前向きに生きていさえすればいずれ、そういう相手にきっと出会える、という、人間全般に対する無条件の信頼感なのかもしれないけど。

とにかくそういうことを、周りの人間に―――特に、何人かは確かにいるに違いない彼の周りの「義務感に燃えたがんばり屋だが、無意識下においては『障害者である乙武洋匡』をこそ必要としているタイプ」の人間に、不快感や罪悪感を与えないように配慮しつつ、さりげなく主張できる、というのは、並大抵の賢さではない。

(だけでなく無論、他人に対する思いやりが自然に身についているということもあるんだろうけども。そういう人間の「自分より不幸な人間を見つけたい」弱さ、一種醜い部分を赦せる感覚がなければ、とてもこんな風には生きられないだろうし)

  きっとこの人ならば、「やる気のない人」つまりは、「義務感や使命感で動いているわけでなく、自然体で対等な友情と愛情を注いでくれる相手」が、これから先いくらでも見つかるだろう、と、しみじみ感じた次第でありました。



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投稿者 : ナツ at 2001/06/28 | カテゴリー : 宗教・哲学
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