見た人も多いと思うけど、いつだったかの「アンビリーバボー」で、「アイヒマン実験」という心理学実験について紹介していた。実験結果のあまりの極端さにうすら寒い思いをした反面、「ああ、やっぱりな」と、妙に納得する面もあった。
見てない人のためにざっと説明しちゃうと、まず、なんとかいう心理学者の権威が(名前忘れたけど、相当著名な博士らしい)「記憶に関する実験」という名目で成人した被験者を募る。で、募集に応じてやってきた人々を二人一組に分け、さらにその二人を、くじで「教師」と「生徒」役に振り分ける。「教師」役に当たった人は、マイクを使って、別室にいる「生徒」役の人に、「青い」と言ったら「ボール」というような、単語の組み合わせを記憶させたあと、問題を出す。
いっぽう、「生徒」役は別室で電気椅子に縛りつけられている。「生徒」役が不正解の答えを出すと、「教師」役は、電流の流れるスイッチを入れ(何段階かで電圧が増加していく)、「生徒」役に罰を与えなければならない。
「教師」役には、罰を与えれば記憶力は向上するか、という実験だと説明してあるが、実はこれはフェイクなのだ。
お互いの姿は見えないが、電流を流せば、「生徒」役の人間が苦しむ声は「教師」役に聞こえる。この状況下で、「教師」役がどこまで電圧を上げ続けるか、実験を続行するか、というのが真の実験目的なのである。
同じ部屋には権威の象徴たる博士がいて、「大丈夫です、死にはしません。責任は私が取りますから、どうぞ」と微笑みながらうながし続けるため、「ギャー!」と泣き叫ぶ「生徒」役の声に脂汗を流しながらも、「教師」役は震えながら電圧を上げ続ける。(しかしこの「生徒」役も実はダミーで、電流なんか実際には流されていなくて、芝居をしてるだけ)
実験前の心理学者たちの予測では、電流を200ボルトにまで上げるような残虐な人間はほとんどいない、ということだったのに、蓋を開けてみれば300ボルト以上が8割、1000人に1人しか存在しないと言われていた450ボルト以上にまで上げた人間は6割。これが「善良なる一般市民」の実態だったという。
実験を敢行した博士は、これを「服従の心理」と名付け、ナチスドイツで600万人ものユダヤ人を虐殺しながら「命令に従っただけだ」と死刑の日まで言い続けたアドルフ・アイヒマンの名前を冠し、「善良な人間であろうとも、自らの責任を放棄できる立場であれば簡単に権威に服従し、残虐な行為も平気で行う場合がある」ということを立証したのでありました。
あー、いやだいやだ。前から書いているけど、「1・自覚のない悪意」、「2・善意・正義だと思い込んでいる価値観の押しつけ」、「3・責任とアイデンティティを他者に依存して自分の行為から目をそむける」、このへんがこの世でもっとも醜悪な人間の心理だよなあ、と感じるところなのよ。わたし的には。たとえば、自分の悪意に無自覚な善人より、自覚した悪人の方がまだましだと思うくらいに。自分がもし「教師」役になったら、あるいはアイヒマンと同じ立場だったら、同じ結果になるかもしれない、と思ってもなお、こういうことをしてしまったらそれは精神的な死だ、アイデンティティの崩壊だと思う。
アイヒマンは15年逃げ回ったあげく戦犯として裁かれてもひたすら、「命令に従っただけ」を繰り返したというが、「本当は残虐で非人道的な行為だ」とわかっていてなお、「命令だから」というたったひとつの理由だけで盲目的に服従してしまえるのだとしたら、「残虐だろうがなんだろうがこれが戦争なんだよ!」という価値観を持つ人間よりある意味ずっとおそろしい。
百歩譲って命の危険を感じたから服従した、としても、「本当は残虐で非人道的な行為だ」とわかっている本当の自分の良心と自我には背いたことになり、その後は生ける屍になるのが当然のような気がする。自分で自分のもっとも大事な部分を殺すようなもんだからね。
先の心理学実験では、実際に電流は流されていなかったし、死者どころか負傷者も出てはいなかったけど、「教師」役の善良な一般市民の方々は、実験の真の目的を知らされてどうしたろう?
「だれも死ななかったんだし、いいじゃないか」
「仮に死んだとしても、博士の命令に従っただけだ」
ということで、自らの良心を完全に納得させて、それぞれの平和で平凡な生活に帰っていったのかなあ、ひとりも自我崩壊起こさずに済んだのかなあと思うと、よけいにうすら寒くなる今日この頃であった。
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