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2002年4月20日

生まれ変わる私

ある人のサイトで、「女の子は自分から変化することは少なくて、男によって変えられる、あるいは男に変えられたがる」ものではないかというような話題が出ていて、そうかなあと考え込んでしまったわけだが。

たしかに女の子にはそういうところがあるんだけど、このニュアンスでいくと、女は主体性が弱いから、そういう女にとって特定の男の存在は自我を変容させるほどものすごく大きな存在(上位自我のような)になる、という感じに読める。

しかし必ずしもそうとは限らないぞ、と思ったわけ。

女が「この人のために変わりたい(変えて欲しい)」と思うとき、ハッキリ言って相手の男のことはあまり頭にない。

この人に自分を変えてもらえば、新しい自分を見つけられるかも

ないしは

自分が選んだ男のために、自分を変えて相手の好みになろうとしている自分ってなんてかわいい女だろう。こんな風に“女”を満喫している自分が好き

という意識が深層にあると思う。

つまり、どこまでいっても結局のところ女の中には「自分」がまず厳然として存在する。「この人のため」と表層意識では思っていても結局、変化した自分を見てみたいとか、そういう女として存在することそのものが自分のナルシシズムを満たすからやっているんである。


前にも書いたけど、「尽くす女」も同様。「男に足蹴にされても尽くし続ける女である自分が好き」だからやっているんであって、「そういう自分」に飽きたら、あるいは「そういう自分」として存在させてくれる男が他にもいることに気がついたら、あっさり鞍替えできる。(これは間近でそういう例を見た)

たしか、サド侯爵夫人の話だったと思うんだけど。

この人はその名の通りマルキ・ド・サドの奥方である。「悪徳の栄え」とか「ソドム百二十日」などを書いて「サディズム」の語源にもなった男であるサド伯爵(侯爵だと思ったら伯爵らしいな)は、その放蕩と筆禍の果てにとうとう10年間もバスティーユ牢獄にぶちこまれる羽目になる。

(直接の罪状は売春婦に対する傷害だったかな)



そんな最低最悪な夫を物心両面で支え、毎日のように牢獄を訪れるサド夫人。夫人の母は、こんなろくでなしと別れさせたくて仕方がないのに、彼女は誰になんと言われようと夫を見捨てず、励まし続ける。獄中生活にいらだったサドの八つ当たりすら甘んじて受ける。

こんなすばらしい妻をないがしろにしてきた自分の愚かさに気づいたサドは、晴れて釈放された日、今度こそいい夫になろうと決心していそいそと妻のもとへ帰る。

しかし、なぜかサド夫人は夫に一目会うことすらきっぱりと拒絶し、別居を申し渡すのであった。(その頃のフランスでは、宗教上の問題で離婚が認められていなかったから、別れたいと思ったら別居するしかない)


サド夫人は長い時間をかけて夫に復讐を果たしたのか。

いろんな解釈があるようだけど、ひとつだけ言えることは、やっぱりこの人は夫への愛情から尽くしていた訳じゃなく、「尽くし、耐える妻である自分」が好きだったんだろうな〜、ってこと。

暴力的で身勝手なかつての自分を後悔し、人のいいただのジジイになって戻ってきた夫相手では、「耐える妻」として存在することができない。それはつまらない。

常識では理解できないほど度を超して従順な女なんて、得てしてこんなもんである。常識で動いているんではなく、男への愛からでもなく、ただ「そういう自分が好きだから」。




なにが言いたいのか、つーと、「オレのために変わろうとするなんて」とか「オレがこの女を変えたんだ」とか思いこんでいると、というより、そこに自分の存在意義や優越感を見いだしていると、別れるときにダメージが大きいってことです。

男が思うほどには、彼女の中で男は大きい存在ではないんですわ。


だから調子ぶっこいてんじゃねえよ、と言ってるんじゃなくて、そういう女性心理を理解してから好きになってあげなよ、といいたいんだけどね。

「ああ、“あなたのために変わる”に酔ってるなこの子」ということを理解した上で、そこをこそかわいいと思うようでなけりゃ長続きしないと思う。

それをいっしょになって、「この女を変えてやった自分という男が好き」とかナルシシズムに浸っているから、いったん別れ話持ち出されると「俺のために変わった女が俺から離れていくはずがない」とばかりに自尊心を傷つけられて大騒ぎするわけ。激しくかっこわるいです。

なんといっても、女の「こんな私が好き」ごっこは自分一人でできるけど、男の「こんなオレが好き」ごっこは、自分に従順な女がいなくなったら成立しないんだから。

そういうあやふやなものに心理的に依存して矜持を保っている男は地盤が激しく弱いから、人間としてもろい。存在としてウザい。男としてかっこわるい。



さらに話はシフトする。

上の方で、「女の子は自分から変化することは少なくて、男によって変えられる、あるいは男に変えられたがる」という話をしたが、この傾向はべつに女だけではない、という証拠のような話が、「ダニエル・キイスの世界」で述べられている。



精神科医の香山リカ氏は、ビリー・ミリガンをはじめ多重人格が日本でブームになっているのは、

自分の中にも自分の知らない自分が何人もいて、それがいつか出てきたり、誰かが気づいてくれるかもしれないというようなファンタジックな要素と結びついたため

であると言っている。

この傾向はどうやら日本だけであるらしく、多重人格障害の本場アメリカでは、もっぱらネガティブに、「虐待の犠牲者がかかる病気」「かわいそう」「あんな病気にはなりたくない」という文脈で語られることが多いらしい。

さらに、今の若者の間に新興宗教が流行っているのも同じ要因ではないかとし、「自分の中にある違う自分というものを、努力によって達成していくんじゃなくて、他人に発見してもらいたいとか、突然現れるという形で気づきたい」という傾向があるためだという。

鴻上尚史氏のオーディーションに、演劇志望の若者がたくさん訪れるが、何がやりたいのかと尋ねても満足な返事は返ってこない。とにかく私の中には何かあるはずだから、それを演出家に見つけて欲しい、と言う。



彼らはみんな、「けいこは嫌だ」と言って、地道な発声とか、演技の練習をしようとはしない。ナチュラルなままでも、この私に何かあるんじゃないか……自分を宝石箱みたいに考えているわけです。そして、演出家に光るものを取り出してもらいたいと考えている。一般的にもこういう人は多いです。

ダニエル・キイスの世界」(早川書房)より引用

北島マヤじゃないんだから

ともかく、男女問わず一億総ナルシスト状態というか、「本当の自分探し」に熱中している、という話らしい。女の子は彼氏に「私を変えて欲しい。あなたのために変わりたい」といい、男は演出家に、あるいは新興宗教の教祖に、でなければ自己開発セミナーの先生に、「俺の中には何かあるはずだから見つけてくれ。磨かれぬ宝石である俺の長所を引き出してくれ」と懇願する。これはどちらも同じ心理からなんだろうな。すなわち、「本当の自分はこんなものではない。自分の知らない新しい自分がいるはずだ(でも、自分で努力してそれを見つけるのは面倒くさい)」という。



同じ心理とはいえ。男が「自分を変えた“師”」にわりとその後も精神的に依存して生きてゆくのに対し、女が「自分を変えた男」にそれほど依存せず、次に男ができればあっさり次の男に合わせられるように思うのは、気のせいでしょうか。




やっぱり、女の本質は結局変わらない、変わるのは表面だけ。誰かによって自我まで変容させられるのは女ではなく、むしろ男の方のような気がしますがどうか。



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投稿者 : ナツ at 2002/04/20 | カテゴリー : ジェンダー
コメント

投稿者 : ティアス at 2007年3月 9日 08:08

>やっぱり、女の本質は結局変わらない、変わるのは表面だけ。誰かによって自我まで変容させられるのは女ではなく、むしろ男の方のような気がしますがどうか。
羨ましいですね。
男は一人になると生きていけないけど、
女は生きていける。
女はいとも簡単に相手を切り捨てることができる。
相手にあわせることができる。

どうして、男は弱いのですか。
どうして、あなた達、女はそこまで強くなれるのですか。
その理由を知りたい。生物学的な理由、環境的な理由、強さのもととなっている考え方。ありとあらゆるものを取り込んで強くなりたい。



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