4/16の日々雑記で「6歳の子供にガンを告知した母親の話」を取り上げたら、結構掲示板の方で反響があったので、死と生に関する問題にはやっぱり一家言ある人が多いな、と改めて認識した。
で、ひとつひとつレスをつけようと考えているうちに、「テキストにできるじゃん」ということに思い至ったので、こっちで書くことにした。うまくまとまるかどうか、わからないけど。
まず、わたしは告知自体を悪いことだとは全く考えていない。
この問題はメディアでも、「告知すべきか・すべきでないか」という論点からばかり語られていたようだが、やっぱりどこでもそういう話になってしまうものらしい。
告知派はもちろん、ふだん掲げている主張からいって、「母親の行為は正しかった」と断言したろうし、反対派は当然反対したろう。こういう論争を続けていくと、必ずと言っていいほど論旨が帰納的になっていく。つまり、いつの間にか「告知・非告知」という抽象的で一般的な概念についての押し問答になってしまい、肝心の「“この”母親と6歳の子供の関係」は、置き去りにされてしまうわけだ。ちょうど話題になっていた時期、わたしはこの親子のことを知らなかったけど、展開には容易に想像がつく。
というわけで、わたしは告知問題自体にはあまり関心がない。これこそケースバイケースとしかいいようがない。この問題を利用して、告知派あるいは非告知派が、自分たちの主張こそ正しいとそれぞれわめいていたとしたら、うんざりするなあと思いはしたけれど。
(なぜなら、よしんばそれで「世間一般的」に「相手が子供だろうがなんだろうが、告知する方がいい」という結論になったとしても、この母親のやったことにはわたしは永遠に反対だからだ。
「告知しない方がいい」という結論が出たとしても同じ。告知しない方が良かったのに告知したからこの母親に憤りを覚える、というわけではないからだ。そんなこととは全く無関係なんである)
一見、立派なことをやったり正論を吐いていたりしていても、ものすごい違和感を感じる人に出会うことがままある。このお母さんもそのひとりだ。
「この違和感はいったいどこから来るんだろう」というのが考えの発端だった。
じっさいあるサイトで、「6歳の我が子にガン告知をしたお母さん」という字面だけ見た時は、「なんて勇気のあるお母さんだろう。子供以上に悩み苦しんだろうに。これは相当な意志の力がないとできないな」と素直に感心したものだ。
しかしその後、告知の方法や、メディアへの露出の仕方や本の出版などを知ると、「本当に死ぬほど悩んだ末に、これしかないと出した結論なんだろうか」という疑問がわいて来た。
子供に心理的重荷を背負わた罪悪感から、“私は正しいことをしたでしょう?”と世間に念を押し続けている感じがしたのだ。
世間的に見て正しいと思われようが思われまいが、それがなんだというのか。子供は死に、もう二度と還ってこない。正しかろうが間違っていようが、子供にとってだけは誠実な親であったなら、それで満足なはずだ。でも、彼女はそれ以上の「評価」を求めているように見える。
この人にとって子供そのものより、告知が正しいか正しくないかの世間的な評価の方が重要なのだとしたら、「告知」という行為そのものも、他のガン患者がその家族から受ける行為とは、まったく異なってくるはずだ。
また、「子供に嘘はつけないから告知した」という理由が第一に来るのもなんだかおかしい。嘘をついている自分が嫌で心理的に苦しいから「嘘はつけない」と言っているかのようだ。他の場合ならともかく、死に瀕している子供を前にしてまず、嘘をつくとか、つきたくないとかいう話になるのは完全にずれている。
結局重荷に耐えられず、子供にすべてぶちまけて判断を押しつけただけなのに、それを正当化しようとして告知問題にまで話をふくらませているのではないか、と思えたのだ。
だいたい、「泣いたってどうしようもない」「がんばってつらい治療をしても結局は死ぬ」「だったらパーッと遊んで終わっちゃう?」などということがなぜ言えるのか。
言われた子供がその場で、「ああ、泣いてもがんばっても生きていられるわけじゃないしね。人生は無常だよ」と悟れるわけがない。大人だってこの認識に耐えることは容易ではないはずだ。
このあたりは掲示板で意見を述べてくれたMさんと同意見である。
人間は、無駄で無意味な生、絶望しかない生を、たとえ短い間でも生きることはできない。何か意味があるのだ、多少なりとも良い方に向かうだろうという希望がなければ、つらい現実を生き抜いてはいけない。
そのことを知っていながら、「生きていたいからがんばって治療する」と決意した子供に、「治療してもつらい目に遭うだけであり、結局死ぬ。夏までしか生きていられない」という「事実」を正直に告げることが正しいと思っているのだとしたら、正気を疑う。ここまで来てしまったらそれは、子供自身よりなにより、「正しいと思ったことを貫く自分」、「子供に嘘をつかない自分」が好きなんでしょうね、としか言えない。
子供が「死にたくない」と泣き叫んだとき、なぜ、希望を持たせて恐怖心を和らげてやることができなかったのか。たとえば、「治療すればもしかしたら長く生きられるかもしれないし、その間に薬が発明されるかもしれない。だから“生きるために”がんばろう。がんばればなんとかなるかもしれない」というような。
それは「むなしい嘘で、現実ではない」から言えないというのか。
だとすれば、この母親が癒しを求める態度は矛盾していると思う。子供の死や、自分の悲しみを無駄にしないためなのか、あるいは自己正当化のためなのか、いずれかが理由なのは疑いないが、本を出版したりテレビで語ったり、サイトで告知・非告知についてアンケートを取ったりすることも。
そうしなければ罪悪感や喪失の悲しみを乗り越えられないというのなら、
「あなたのやっていることはすべて無駄で無意味だ。子供は生き返らないし、あなたが正しかろうがそうでなかろうが、実のところ世の中にはまるで関係ない。つまりそれは自己満足に過ぎない。人生は残酷なものだ。これが現実であり、泣いても仕方がないので、直視しなければならない」
と、言いたいとさえ思う。嘘をつかず、正直に。
これで果たして生きる気力が涌いてくるものだろうか。
(掲示板にBさんが書いていたが、
ずいぶんと「子供にはナンでも知る権利と責任があるんだ」つ〜直球な近代主義的テーゼに乗っかった人だな〜”としか思えないな。
多分、この人って、このテーゼに乗っかって、意識なんかまったくしないで子供に十字架背負わせっちゃった善良な母親だと思うよ。
死というものを教えるのが残酷なことだと思うなら、
それはつまり、この世界がそういう意味で
残酷な世界だということでしょう。
それは、仕方ないじゃん。実際にそうなんだから。
blogランキング参加中このエントリーのトラックバックURL: