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2003年9月20日

絶対的被害者

足跡掲示板の方に閲覧者の方から書き込みがあり、レスを考えているうちに妙に長くなったので、テキスト上でお答えすることにします。


はじめまして 投稿者:DD 投稿日:2003/08/31(Sun) 02:33 No.1894

A・ミラーの「魂の殺人」でヒットしてここに来ました。

幼児虐待のあまりにも辛い経験を引き摺りながら、
しかし、「甘えるな」「あんたは弱すぎる」「そんなに死にたければ死ねばいい」という否定的なことを言う人間の無頓着さ、
冷酷さに対するナツさんの憤りにはとても頷くところが多いです。

ただ、みていて、はて?と首をかしげたところもあります。

それは、小児性愛者に対する、激しすぎるとも言える憎悪です。
確かにそれは、明らかに人道から外れた行為でしょう。
だけれど、誰もが人道を明らかに踏み外していると考えるような事を、
どうして彼らはあえてしてしまうのか?
ナツさんは、その疑問を一切問うことなく、
怒りと憎悪に任せてそれを葬っているように私には思えます。
それはちょうど、 
幼児虐待で想像を絶する苦しみを経た人に対して、
甘えるな、お前は弱い人間だ、と有無を言わせず断じる人たちに、
通じるところはないでしょうか?

初めて来ておきながらあまりに不躾な質問かとは存じますが、
私が感じた疑問に対して、
ナツさんがどのように答えていただけるのか、
私は非常に興味があります。

宜しければ、ご意見をお聞かせ下さい。
もし、この質問がナツさんの気分を害されるようでしたら、
どうか無視して下さい。

突然の訪問で突然の質問、失礼致しました。


DDさんの質問の意図がちょっとわたしには理解できないです。なぜ、犯罪者を怒りをもって断罪してはいけないのでしょうか。
小児性愛者は自分も過去に性的虐待を受けたことがあるはずなのだから、彼らの“人道に外れた行為をしてしまう弱さ”は憎むよりも許容されるべきではないか
こうおっしゃっているのでしょうか。
だとすればわたしには首肯しかねます。
「加害者も性的虐待の苦しみを経てきたはず」という大前提がない限り、上記のような質問にはならないと思うので、そうだと仮定してお答えすることにします。


前にもテキストのどこかで書いたことがあると思いますが、わたしは、辛い体験を引きずりながら、加害者を責めるよりもまず、「自分にももしかして非があったのでは」と自罰的傾向に陥ってしまう人々に、「そんなことはない。あなた方は悪くないんだ。もう楽になっても良いはずだ」と言い続けたいわけです。
そして、その辛い経験を克服し生きていこうとする人、なお人間を信じることをおそれない人に心惹かれます。


ですから逆に、いつまでも被害者としての殻にこもって、すべての人間を恨んだり、その恨みをおかど違いにも無関係の他人に向けて攻撃する人々には完全に否定的です。
誰も傷つけていないどころか、今も苦しんで自分をおとしめている無辜の人間と、自分を罰するどころか無関係な子供にかつての自分と同じ苦しみを味あわせる・・・他人をおとしめる小児性愛者。
いったいこれは、同列に扱うべきものでしょうか。


自分を責め苦しんで苦しんで、もがきながら立ち直ろうとしている人々を、それ以上に追いつめるような真似は冷酷で想像力のない所業です。
しかし、立ち直る気もないまま自分が受けたのと同じ苦しみを無関係な誰かに与えた人間が「私だってこんなに苦しんでいるのだから仕方がないのだ」とうそぶいたとしたら、「甘えるな」と有無を言わさず断罪します。
加害者になった時点で、その人は、被害者としてのみこの世に存在する権利を失うのです。自分が苦しんだからと言って他人を苦しめていい理由にはなりません。


こういうスタンスはわたしのテキストに一貫していると自分では思っているのですが。
つまり、わたしにとって弱さとは決して無制限に許容されるべきものではないのです。「許される弱さ」と「許されない弱さ」があるわけです。
(たとえば、「女子供を抑圧することによって自分を強く見せようとする支配的な男」などという存在はまったく唾棄すべきものだと何度も書いてきましたが、こういう人間こそ醜悪なほど弱いといえます。この弱さの原因がどこにあったとしても、弱者をいたぶることの正当化はできません。)
ですから「子供を嬲ることによって昔の傷を癒すような真似」を、犠牲者の弱さであるとして許容することはまったく馬鹿げていると思っています。
そんな弱さは許される弱さではありません。


とはいえ、犯罪の加害者が「なぜそのような犯罪を犯したか」という原因を究明したり、統計的データを取ることは、防犯上あるいは社会心理学的にみても、犯罪者個人の矯正目的から言っても重要であると思っています。
だから「誰もが人道を明らかに踏み外していると考えるような事を、どうして彼らはあえてしてしまうのか?」と問い続けていくことは必要だし、当局なり研究機関なりがしっかりと原因究明をすべきです。わたし個人にできることといえば憶測くらいのものですから。
(そして、憶測程度なら何度もサイト上でしてきました。)


だけど、原因が何であろうと児童性虐待が忌まわしい犯罪であることに変わりはない。
たとえ原因が判明しても、罪は罪でしょう。絶対に正当化はできない憎むべき犯罪です。
だからDDさんの、「あなたは怒りと憎悪に任せて犯罪者の苦しみを葬っている。それは無頓着で冷酷な態度である」と言わんばかりの論調は理解しがたいのです。
もし、幼児期の性的虐待経験が、成人してからの犯罪すら情状酌量されるほどに重大かつ因果関係の明確なものであるとしたら、それを罪もない幼児に対して行った罪は情状酌量など許されないほど重いものだということになる。
「未来の性犯罪者予備軍」を一人作ってしまった、という理屈すら成立するわけですから。


自分も被害者なのだから幼児への性的虐待は情状酌量されるべき」という犯罪者の理屈がうさんくさいのはこうしたパラドックスのせいです。このような理屈では加害者側の事情は考慮されていても、その事情に巻き込まれた無関係な被害者の傷については、無視あるいは軽視されているのです。


次に。ブレンダ・ラブというアメリカの研究者の解説文を引用してみます。


小児性愛 PEDOPHILA(ペドフィリア)

 小児性愛とは、子供に性的魅力を感じることをいう。
 こうした大人は、ストレスがたまっている、大人の人間関係がうまくいかない、酒・麻薬などの中毒者である、精神的に障害を持っている、などの場合が多い。
 彼らは子供とのセックスにしか興味がなかったり、それを自分の子供にしか行わなかったり、あるいは単に子供を捜し出すだけで満足するなどのパターンを持つ。
 子供の売春はいまだに世界の多くの地域で見られるものである。小児性愛 を受け入れるかどうかは社会によって異なるが、世界のほとんどの国では、ここ数百年で禁止されるようになった。

 幼い頃に性的に虐待されていたか、これが容認されていた家庭出身の男性は、小児性愛への正常な反感を抱くことができない。
非行少年収容所に入っている青少年は、監禁前に性的いたずらや虐待を経験していることが多く、たいていの性犯罪者はこの攻撃的な行為を思春期の頃からはじめている。
63人の青少年に行ったある調査では、70%が収容される前に性的いたずらや強姦を経験していることがわかった。のみならず、収容されている間にもかなりの割合で性的暴行を受けていることを示す資料もある。

 この種の性犯罪でなされる小児性愛者へのセラピーは、被害者に加えられた危害を理解するのと同様に、当人の責任や過失を明らかにすることからなっている(ほとんどの小児性愛者は、最初は自分自身が犠牲者だと考える)。
また、性的機能不全を調べ、他の成人との人間関係を確立するのに助けとなる社交的なテクニックを磨き、以前の小児性愛への条件付けをなくすために行動の強制を行った上で、薬理学的な治療も必要となる。


少なくとも小児性愛者の何割かは、自分も幼い頃に性的虐待を受けている事実はあるようです。ただし、これはあくまでアメリカの研究結果なので、日本とは多少様相が異なると思われます。
(日本では、親の過保護や抑圧などが原因で、大人の女性と正常な関係を結べなくなり、子供に性欲を向ける犯罪者も存在する、とする説もある。)


どちらにしろ重要なのは、「ほとんどの小児性愛者は、最初は自分自身が犠牲者だと考える」という部分です。だから、「被害者に加えられた危害を理解させるのと同様に、当人の責任や過失を明らかにすること」が犯罪者のセラピーにおいて必要だと専門家は述べているわけです。
わたしは「誰もが人道を明らかに踏み外していると考えるような事」をあえて繰り返してしまうのだとすれば、それは「当人の罪の意識が薄いからである」という仮説を立てていたのですが、奇しくもそれは当たっていたようです。


自分がこの世界において絶対的な被害者であると規定して存在している者の罪悪感の希薄さ、自己制御能力の無さは恐るべきものである、とわたしは以前書きました。(2002年1月7日付雑記・被害者意識と児童虐待とか)
かれらは、どんな罪を犯そうとも最終的には、「自分の方が被害者より苦しんでいる」「自分がこうなったのも○○のせいだ」という言い訳で良心をねじ伏せてしまえる。だからこそ、普通の人間より「人としてやってはならないこと」のハードルが低いのです。無邪気な子供と比べてさえも、「自分の方が哀れな被害者だ」という意識が捨てきれないわけです。


(上記の雑記は宅間守の事件にからめてですが、供述調書や手記などから、宅間のあきれるほどの責任転嫁、自己無謬性がさらに浮き彫りになりました。
「自分に逆らえない絶対的に弱いものに対する性的・肉体的攻撃」を行うタイプの犯罪者は、基本的に宅間のようであるに違いないとわたしは考えています。 → 異様な「後悔」、責任転嫁・・・宅間被告から47枚の手記


さらに、長崎男児殺人事件の犯人である12歳の少年も、供述から罪の意識が希薄であることがわかっています。以下、精神医学者の町沢教授の解説。


「これは母親が強いこの家庭環境とやはり無縁ではないと思います。 この少年は、男なのに女の文化を受け、性的な混乱が生じている。対等の女性が怖くなりますから、同性の年下に対象を求め、自己中心的な性的傾向を帯びるケースがあるのです。 この子の場合、父親は怒らないけれども、母親に叱られたら最後。 ですから、母親を"あの女"とまで言うんです」

「これを治すには,落ち着いて自分のやったことを論理的に振り返り、道徳的なことを理解させなければなりません。
しかし、彼は今、殺したことよりも、ハサミで性器の皮を切って、そこに快感を感じたということをすべて隠しています。それを知られることを一番の恥だと感じているのです。
一方で、人が死んだらどうなるか、を考えてもいない。大変なことしでかしたと、慌てふためいていることは分かりますが、自分の内面から悪いと言う言葉が出ていない。"自分もやられたからやった"と言う自己中心的な言い方からは、罪悪感が感じられません。危険ですね」


子供の人権を守る市民の会より引用・・・引用元:新潮社『週刊新潮』


ちなみにこの少年の場合は、自分も幼い頃に性的被害に遭っています。12歳の少年が捕まったというニュースを見た時から、予測はしていました。成人ならば別ですが、子供がこうしたゆがんだ性行動(小児性愛・同性愛・サディズムの複雑な混交)に出るということは、何らかの前例や体験がない限りほぼありえないらしいです。)


こういう人々に対してまず必要なのは「罪を自覚させること」であり、「自分は子供に対して酷いことをした加害者であると理解させること」であるはずです。「君も苦しんできたのだから被害者だよね」などと闇雲に理解や赦しを示して問題をなあなあにしてしまうことが解決になるとは思えません。
自分が被害者であるという思い込みこそが、欲望を抑制できないファクターになっているわけですから。世の中で苦しんでいるのが自分一人だと思うな、甘えるな、とあえて言わねばならないわけです。


結局、「自分よりも弱い罪なきもの」に身勝手な欲望を押しつけた時点で、弱者から強者に、被害者から加害者に立場を変えているのに、いつまでも被害者の地位にしがみつき、昔の苦しみによってゆがんだ欲望が正当化されると考えることがおこがましいのです。
そういった「心理的ごまかし」をゆるし、逃げ場を作ることは、こうした性犯罪者にとって良心を麻痺させる麻薬を与えるようなものです。「異常性欲や攻撃欲求を抑制しようともせず幼児に向けてしまう自分」を、自己肯定させてはならないわけです。
過去にどんな経験をしていようともそれとは関係なく、幼児に対するこの行為は憎むべき犯罪だと教え、きちんと自分の罪と向き合わせることこそが、再犯を防ぎ、ひいては犯罪者のためにもなるのではないかと思います。


最後に。
「確かにペドは犯罪者だ。しかし彼らも昔同じ事をされて苦しんだ揚げ句の犯罪かもしれない。だとすれば彼ら個人の罪ではなく、社会全体の問題ではないだろうか。彼らもまた被害者である」。
こんな結論を期待されているのだとしてもわたしには無理だと言っておきます。何でもかんでも問題を相対化して曖昧かつ無害なところに話を落とす風潮には心底うんざりなので。



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投稿者 : ナツ at 2003/09/20 | カテゴリー : 心理
コメント

投稿者 : ティアス at 2007年3月 9日 07:14

誰かを傷つける人は許さない。
たとえどんな人であっても・・・。
そんな感じのことが書いてありますが、
あなたの「拒絶」という形で暴力をふるってます。

加害者のためにならないからという理由をつけて、
「自分ひとりじゃない。甘えるな」と突き放してる。
挙句の果てに、罪を自覚させ、罪悪感に苦しめようとしている。

あなたも心の弱い人を傷つけてる面では加害者と同じです。もちろん、私も・・・。



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