● アイ,ロボット−I,Robot−(★★☆☆☆)
2004 アメリカ
監督 アレックス・ブロヤス
出演者 ウィル・スミス
ブリジット・モイナハン
西暦2035年。家庭用新型ロボットNS−5の発売を目前に控えたUSロボティック社で、ロボット工学の第一人者、ラニング博士が謎の死を遂げる。シカゴ市警のスプーナー刑事(ウィル・スミス)は、博士の死をロボットの仕業と読むが、主任のロボット心理学者カルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)は『ロボット3原則』を掲げ、人間に危害を加える可能性を全面否定する。そこへ、一体のNS−5が動き出した。それは、3原則をプログラムされていない『特別な』ロボットだった。
アイザック・アシモフのSF小説が原典。ロボット三原則をベースにしたSF映画は過去にいくつも作られているが、いまさらSF界の古典を持ってくるとは、ハリウッドのコンテンツ不足も深刻だなと思ってしまう。
日本映画やアニメのリメイクに血道を上げていることといい、あきらかに、映画の需要に比して適切な原作の供給が不足しているということだろう。
(※例として、現在ハリウッドでリメイクが進行中の日本映画。
Shall we dance? → Shall we dance? (2004予定)
仄暗い水の底から → Dark Water (2005予定。主演はジェニファー・コネリー)
呪怨 → Grudge (未定)
生きる 交渉および企画中
幸福の黄色いハンカチ (タイトル、公開未定)
ほかに「回路」「修羅雪姫」などが進行中 との話。
上記は映画のリメイクだが、アニメではドラゴンボール、ルパン三世、エヴァンゲリオン他多数のリメイクが進行中。)
余談だが、日本が映画やアニメの原作に困らないのは漫画が隆盛していることが一因にある。制作に不可欠な「絵コンテ」(シナリオを基に登場人物の動きやカメラアングルなどを、カットごとに絵で示したもの)や、キャラクターデザインが漫画ですでにほぼ完成されているので、映像化しやすいわけだ。
映画監督になりたかったという人も漫画家の中には多いので、日本のコミックは流れが映画的だしカメラアングルもセンスがあり完成度が高い。それに気づいたハリウッドの映画関係者は現在、日本の漫画を映画化するために漁っているという。ルーカス・スタジオ(ジョージ・ルーカスの映画制作会社)には日本アニメ・漫画専門の研究部門すら存在するそうだ。
それはさておき。「アイ,ロボット」の話。
「機械の中のゴーストが云々」という登場人物のセリフに引っかかったのだけど、これは「攻殻機動隊(Ghost in the shell)」のパクリらしい。攻殻機動隊の元ネタがアシモフだったのか?とも一瞬思ったが、サイボーグやロボットの心や魂を『ゴースト(幽霊)』と表現するのはやっぱり士郎正宗が本家本元のようだ。
オマージュというかリスペクトというか、攻殻機動隊に影響を受けてることはよく分かったけど、その割には従来のロボット観から一歩も抜け出ていなくてつまらない話のまま終わってしまった。
ロボットを統括しているマザーコンピューターはHALの劣化型だし、自我を持ったロボットが一体だけ現れるとはいえ、機械に自我が目覚めるということが、社会や人間に具体的に何をもたらすのか、についてなど制作者はどうでもいいというかぜんぜん考えてないっぽい。
ロボットの集団に襲われたらこわいよーという、欧米人の得意ないつものフランケンシュタイン・コンプレックス(自分の作った怪物に反逆されるという強迫観念)に終始してしまって、いったいロボットの自我や感情というテーマはどこへやったのさとあきれた次第だ。
直立二足歩行する、つまりは「人型」のロボット工学に関しては、日本が現在世界で最先端を走っているらしい。
その理由のひとつに、「鉄腕アトム」があることは疑いないという。このアニメに夢中になって育った世代が開発チームの中に大勢いるわけだ。
アトムの存在は、日本人のロボットに対する無条件の好意、信頼感、ポジティブなイメージを育むのに大いに貢献した。そんな理由から基本的にロボットに対する抵抗感がないのと、「アトム」を現実に造りたい、という夢に後押しされてトップレベルの技術を有するに至ったのだという。
サブカルチャーが国民意識に多大な影響を与えることがあるという好例だと思った。
それに反してアトムが生まれなかった欧米では、今の時代に至るまで、「ロボットに知能を与えたら人類の敵になるに決まってる」「人工物に自我が目覚めたりしたらいつか造物主である人間に逆らうだろう」という恐怖感から抜けきれない。
映画「A.I.」でやっと多少「アトム的」なロボット像が示されたかなと思ったら、「アイ,ロボット」でまた昔に逆戻りという感がある。
フランケンシュタイン・コンプレックスと先に述べたけれど、18世紀に書かれたこの怪奇小説を例に挙げるまでもなく、欧米人の創作物の多くは「造られた者は必ず生みの親に反逆する」というメタファーに満ちている。
西洋文明の源にあるギリシャ文明。その神話では、天空神ウラヌスが息子クロノスに支配権を奪われる。そのクロノスも「お前も自分の息子に地位を奪われるだろう」と予言され、それを恐れるあまり生まれてきた子供を次々と呑み込んでしまう。
ゴヤの「我が子を喰らうサトゥルヌス」という絵はそのエピソードを題材にしたものだ。
(そこまでしても・・・というか、そこまでしたからこそ予言は成就し、クロノスは息子ゼウスに殺されてしまうのだけど)
「未だ起こっていない我が子の反逆」を防ぐために我が子を喰らう、というのは、西洋人にとっての心の深淵なんだろうな、とこの絵を見るたびに感じる。
我が子を恐れるのは、過去の自分自身が父親=支配者に対して怒りと憎悪を感じていたからだ。それを我が子に投影して恐怖を抱くわけだ。
どうも単純に反抗期や過渡期の反発といったかわいらしい心理のメタファーではないらしい。成長すれば関係修復に至るようなものならば我が子を喰らって反逆を防ぐ必要もない。
ゴヤの描くサトゥルヌス(クロノス)の目は、今喰らっておかなければ手遅れになる、という恐怖に充ち満ちている。反逆されることへの狂気の域に達したおそれ。
西洋文明のもうひとつの礎であるキリスト教に於いても、アダムとイブが創造主である神に逆らって楽園を追放される。
この追放に至るエピソードも、神きったねーとしか言いようがないというか、手の届くところに「命の木」と「善悪の知識の木」を置いておいて、「知識の木の実は決して食べてはならない」と命令する。その結果アダムとイブは木の実を食べてしまうわけだが、人間が自分(神)に従順かどうかわざと試し、逆らったので楽園を追い出したとも解釈できる。
ちなみに命の木の実の方は食べてもいいとされていた。ところが、二人が「知識の木の実」を食べてしまったからには、命の木の実ももはや食べさせるわけにはいかなくなった。なぜならば、
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。(創世記第三章)
善悪を知って、永遠の命を得ると、人間は神になってしまうからだ。神としては自分に反逆した者にとってかわられてはたまらない。支配者である自分の地位を脅かされないために早々に二人を楽園から追い出し、命の木の実を取られないように手を打った。
「お前も小心者だな・・・」と呟いてしまう展開である。
「被造物が知性を得れば必ずや造物主である支配者を脅かす」という強迫観念は、紀元前の昔から西洋人に染みついている遺伝的恐怖なのかもしれない。ここから自由になれなければ、ロボットやアンドロイドを題材にするたびに同じテーマの繰り返しになるだろう。
そういった欧米文化に裏打ちされた古いテーマではいいかげん観客も飽きる、と気づいたからこそ、西洋的世界観から自由である日本のコンテンツに新鮮さを感じて模倣しはじめたのだろうに、最新のCG技術を駆使しながら内容の方はアナクロ極まれりというか、「新しい革袋に古い酒を入れる」状態になってしまっているところに、アメリカ人の心理の複雑さがかいま見えたりもする。
(アメリカでは当初、日本アニメの人気を文化侵略だとして排除する動きもあった。アニメにおける世界観や思想やテーマが「日本的である」「西洋的でない」ということで、子供に与える影響を憂慮し脅威を感じていたわけね。
ことほど左様に思想面では保守的なお国柄なので、あっさりパラダイムシフト、というわけにはいかないのだろう。
日本的考え方で行けば、「たかだかアニメや映画ごとき、何を深刻に考えてんの? 所詮は娯楽でしょうが」というところなのだが、前述したように「アトム」が日本人の意識に与えた影響も鑑みると、彼の国を笑ってもいられない。)
ちなみに、「アイ,ロボット」のリスペクト対象である攻殻機動隊ではロボットはどう描かれているか。
TVアニメ版の攻殻機動隊SAC(スタンド・アローン・コンプレックス)第15話、「機械たちの時間」を見てみると、思考戦車のタチコマ(ロボット)たちがこんな会話をしている。
「生命って言葉の定義自体が流動的だからな。ロボットに接することで、人間にとっての生命のイメージが、無意識の内に変わってきてるんだよ。多分ね、変化してるのはロボットではなく、むしろ人間の方でしょう」
(攻殻機動隊SAC第15話・「機械たちの時間」)
このあたりがいかにも日本的だなあと感じる。人間の意識のあり方によって、ロボットの存在はいかようにも変わる。ロボットが自律的に変化していくわけではない、という理屈である。人間が無機物に心を感じた時点で、無機物に生命が宿る。アニミズムだ。
こういった世界観の中では、たとえロボットが人間に反逆する日が来たとしても、それはロボットの自律的変化ではなく、「人間が、ロボットを敵と認識した時にはじめて敵となった」という話にしかならないだろう。
「アイ,ロボット」の世界観との決定的な違いがそこにはある。
blogランキング参加中まあ、サボタージュも「人間への反逆」であることに変わりはありませんからね。
このエントリーの本論に従えば、ロボットではなく、「ロボットはサボタージュを起こすに決まってる」と考えている加藤さんの意識が欧米人的である、と言えます。「ロボット」というと、まず逆らわれることを反射的に想定してしまうというわけです。
ところでドーマンセーマンですか?<加藤保憲さん
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