前エントリのコメントレスが長くなったので、新エントリにしました。非モテ革命家・furukatsuさんとの非モテ論議の続きです。
そろそろ話がループかな?と思ったのでまとめに入ったのですが、まだ続いているので、どこに着地するかはわかりませんが、もう少し続けてみます。
新たにコメントがある方はこちらのエントリにお願いします。
※前エントリのコメント欄が長すぎるせいか、コメント投稿しようとするとエラーが出ます。どうも限界みたいです(笑)
(恋愛至上主義による)抑圧は恋愛をしない人々が増えれば増えるほど強まると思います。強者がその地位を維持するために策動を繰り返すというのは十分にありえる話です。たとえば「電車男」の登場に代表されるような事例が物語っていると言えるでしょう。
うーん。「地位」って何だろう。ここまで言うからには、「恋愛至上主義による」カーストが「社会的に」存在するという前提に立っているんだろうけれど。
他人の不幸を確認しないと自分の幸福を確かめられない人種はいつの世にも存在しますが、それは何も恋愛に限った話じゃない。
例えば、「金を持ってる奴が強者」という価値観や、「出世できない奴や低学歴はゴミ」という価値観で他人を見下す人も大勢いますよね。
それに比べれば、「恋愛できない奴はゴミ」という価値観は、若者の間で局地的に存在するに過ぎず、全体的に見ればどう考えても金持ちや社会的地位の高い人、高学歴者の方が強者ですよ。
「恋愛経験の有無」は社会的な地位を決定づける要素ではありません。
劣等感を抱いている人と、優越感を抱いている人の間でのみ成立している、心理的格差でしかない。
少なくともわたしは、「恋愛=たまたま縁があったからするもの」としか思ってないし、いつ失恋するかもわからないし、自分(と相手)のことだけで精一杯で、その他の有象無象が恋愛してるかしてないかを逐一確かめる気にはなりません。
要するに人は人、自分は自分なので、どーでもいいです。
今はたまたま非モテ論議に関わっていますが、「俺は恋愛できないことが苦痛なんだーっ」という叫びを耳にするまでは、気にも止めていなかったというのが正直な所です。
まして恋愛するしないを「地位」とも思っていないので、何それ?という感じで、まったくピンと来ません。
電車男などはマスコミが仕掛けたブームでしょう。韓流ドラマ等と同じ。
カップルが増えれば消費も活発になるし、「カップル用の消費傾向」というのは大体決まっているので、ブームも作りやすく、売れ筋も読みやすくなり、マーケティングが容易になります。だから、マスコミや企業がカップル成立を煽るのは資本主義社会としては当然です。
それを、「恋愛してるカップル自身が地位安泰・体制維持のために策動しているのだ」と読み取ることは的はずれです。それではあやしげな陰謀論になってしまいます。
どちらかというと、彼らはマスコミに乗せられている側でしょう。
たしかに非婚の問題は経済的な問題や女性の解放の問題に還元出来る部分はありますね。 とはいえ、その中には非モテの問題という要素も存在するでしょう。
「一生恋愛しない、できない童貞・処女」の問題ならば、それは非モテ問題と言えますが、恋愛はしても結婚はしないとか、恋愛経験があっても今はカレカノがいないという人々の問題と、非モテ問題をごっちゃにして語ることは、「どうだ。これだけ非モテがいるんだ」という意図的な水増しでしかないということです。
そういった混同は、「非モテ問題」を真剣に考える上では無意味だと思います。
どんなに奇麗事を言っても、最終的には内面を含むパラメーターの差し引きによる妥協や、自らのパラメーターと相手のパラメーターのバーターになるでしょう。それは愛やらなんやらの綺麗な言葉でデコレーションをしたところで、最終的には欲望、もしくは功利の概念によって帰着されうる問題です。某個人との情緒的な関係においては正義の概念は成立しません。もし正義の概念が成立するとすれば、それは公共的な善、例えばボランティアや制度設計のレベルの問題になります。もし某個人との情緒的な関係において正義を実現させるならば、美しい女性が浮浪者と恋愛するような事態になるでしょう。しかし、そのような事態は発生しない。なぜならば、その個人の間の情緒的な関係は欲望と功利の概念に基づいているからです。なぜ金持ちで外見が美しく、性格が良いと言われる人間がモテ、そうでない人間がモテないのか。それは人々が取捨選択を自由意志で功利に基づいて行っているからに他ならないでしょう。
どんな人間をも無条件で愛せる無償の愛がそんじょそこらに存在するとは誰も言っていません。
一部非モテの人と話していて違和感を感じるのは、この「0か1か」という極端さなんですよね。
「無償の愛でないなら欲望or功利であって正義ではない」。
なぜこんな極端な話になるのだろう。マザー・テレサでなければ真の愛は実現できないとでも言うんでしょうか。
これだから「私はあんたのママじゃない。女に母親の愛を求めるな」と言われるのでは?
「あばたもえくぼ」という言葉は恋愛の一面を端的に表しています。
好きになったから、相手の欠点と思われる部分はどうでもよくなる。長所に対する愛情が大きいから、欠点は些細なことと思える。
それを「妥協」というならその通りですが、「俺は(私は)しかたなく妥協してやっているんだ」という類の感情ではありません。愛情・好意に基づく自然で抵抗のない妥協なんです。「自分にだって欠点はあるからお互いさまだ」という気持ちもあるでしょう。
そこに至るには、当然、相手の長所への好意や愛情が強くなくては成立しませんが。
furukatsuさんにも友人はいるはずです。その親友は果たして「欠点のない完璧な人間」でしょうか?
そこで彼の欠点に目をつぶったとして、「俺は妥協して友達になってやったんだ。この関係は功利であって正義ではない」と考えるのですか?
そうではないはずです。友達だから、好きだから欠点があってもお互いに受け容れあえるのです。承認しあえるわけです。
「ほんとにこいつのこういうところだけはどうしようもないな。でもやっぱり基本はいい奴だから、絶対嫌いになれない」という好意を、単なる功利主義としかとらえられないなら、あなたには本当の友人は居ないということです。
恋愛も結局は人間関係なのだから、親友との友情(情緒的関係)をベースに考えれば間違いはないですよ。
「母親のような無償の愛ではないから、どんなに綺麗事を言ってもしょせん恋愛なんて偽物だ!」などと喚くのは、小学生まででお願いしたいです。
>最大の問題は「俺はキモイ」という固定観念じゃないんですか?
>これこそ「ブルジョワ階級に植えつけられた」最悪の固定観念だったのでは?
その通りです。
もちろん私はこの「俺はキモイ」という固定観念を絶対に捨てられないというわけではないという事は認めます。しかしながら、それでも全ての人がその固定観念を捨てられるわけではないことを問題にしているのです。そしてそうであれば結果的に他の非モテを足蹴にしてカースト上位に昇るという形にならざるをえないでしょう。
論理が飛躍していてわかりません。仏教徒の「解脱」は他人を踏みつけにして上位に昇ることなんですか?
わたしは、「“俺はキモイ”という固定観念を捨てる」ことは、解脱のようなものと考えているのですが。他人の価値観にいちいち左右されず、どこにいても何をしても、自分は自分という自信を持つことです。
カーストの上だの下だのと言っているうちは、まだその「カースト」が存在するという「モテ的価値観」に縛られている証拠ですよ。
だって、「恋愛できない→カースト下位→キモイ」という三段論法から逃れていないじゃないですか。
その固定観念を捨てる話をしているのに、「“俺はキモイ”と思わなくなったら、他の非モテよりカースト上位に昇ってしまう。俺が上に上がったら他の非モテがかわいそうだぜ」って・・・、悪趣味なギャグとしか思えません。
いわゆる脱オタという行為はこの自らはキモくないという確信を得るための行為であるという事は重要な点です。
「脱オタ」は、「オタクがキモイ」という「ブルジョワ的価値観」に思いっきり乗っかった上で、「キモくなくなる」ための方法論でしょう。
自分を“キモイ”と罵るような人間の価値観にあわせて体裁を整えることであり、「モテから見た自分はキモくない」と安心するための行為でしかないです。
真に「固定観念を捨てる」ということは、着飾ったギャルやイケメンモテ男が「キモイ」と嘲笑しようと、「お前らに評価(承認)されなくても結構」と突っぱねられるだけの自我を確立することです。
何もしていない他人に面と向かって「キモイ」と罵倒できるような人種に、「あなたはキモくないわ。ステキだわ」と認めてもらいたくて苦しむようなことは、馬鹿らしいからやめるべきだし、そもそもそんな人種に「キモイ」と言われても、薄皮一枚ダメージ食らわない、お前みたいなギャルがどう言おうと俺は自分を「キモイ」と思ってないからキモくないんだ、という場所に到達することが、「固定観念を捨てる」ということです。
「モテから見て自分はどう見えるか」ではなく、「自分から見て自分はどうか」を判断の中心に据えることを意味します。
モテの価値観に倣っていないのだから、モテの価値観である「カースト」も、そこには存在しないのです。
ここではっきりさせておきたいのですが、例えばまりねこさんは、非モテ問題をそのまま恋愛問題ととらえ、「恋愛しているまっただ中の人は非モテ話に関わる心理的余裕なんか無い」ということをおっしゃっています。
ですが、わたしは実はそう思っていません。
「俺はモテたい」とストレートに彼女を求めてあがいているようなモテない人であれば、確かに気にも止めなかったと思います。自分の恋愛やら人間関係の方が重要だし、他人の恋愛問題に首突っ込んであれこれアドバイスするほど経験豊富でもないですからね。
どうして非モテ問題がこれほど自分の琴線に触れるのか、を考えてみると、結局のところ、自意識やアイデンティティの問題だからに他なりません。
「見捨てられた子供の疎外感」というか、「自己承認を求めて苦悩する存在」というものに、かつての自分を重ね合わせて同情したり共感したり、同類嫌悪したり、「いつまでも堂々巡りしてるなよ」と反発したりしているわけです。
「かつて」と言っても、今現在も反応している以上は、まだまだ心の奥底にはそういう自分が残っている証拠でもあるんですが。
「何か絶対的で永遠不変のものが欲しい」という、思春期ドリームのかけらですね。
だから、「非モテネタを取り上げるのはモテとして優越感を感じたいからだろう!」と言う非モテの非難(時々言われる)は、的はずれとしか言いようがありません。
「モテるモテない」という単純な問題ではなく、自己承認の問題だったから、わたしもこれほど食いついてしまうし、多くの人を引きつけるのだと思います。
非モテにとっての不幸は、「モテるモテないや性欲の問題」であればずっと話がたやすいのに(一昔前なら北方謙三みたいに「ソープへ行け」で終わったかもしれない)、恋愛が自意識の問題と切っても切れなくなってしまい、「恋愛するか、死ぬか、ふたつにひとつ。それが問題だ」という所まで心理的に追い込まれてしまっているということです。
「死にたくないから革命だ」と言い出すfurukatsuさんのような革命家が出てきたのも、この流れでは必然と言えます。
そこで、「や、普通に恋愛しないで生きれば済む話じゃね? そっちの方法にしましょうよ。簡単だし」と言っているのがわたしやまりねこさんであり(結論は同じなんですよね)、「今の社会では恋愛しなければ生きられないんだ。だから革命を起こして恋愛のない社会にするんだ」と主張しているのがfurukatsuさんであるわけです。
この永遠の平行線に突破口が見いだせるとは思えませんが、何か面白い視点が出て来ないかな、と思いつつ、話に参加させてもらっています。
blogランキング参加中「人はパンのみにて〜」のコメント欄が長すぎるので、レスはこっちに付けておきます。
●furukatsuさん
レスが長くなったのでエントリに回しましたー。
●まのさん
覚えてますよ。確か、ヒッチコックの恐怖実話がロアルド・ダールの短編のパクリだったと教えて下さったのはまのさんでしたよね? お久しぶりです。
わたしも「どんな社会を目指しているか」はずっと気になってるんですが、やっぱりfurukatsuさんは「痛い非モテ」を故意に演じているという気がするんだよなあ・・・。
天然の「痛い非モテ」はルサンチマンが勝っちゃって矛盾を認めず、何の話をしても「おまえは強者だから、非モテを見下してるからそんなことを言うんだ」と言い張るので、わたしも嫌になり途中で議論を投げ出すんですけど、furukatsuさんの場合は、矛盾は矛盾として認められる客観性やバランス感覚を持っているし、その主張も「非モテの思考の問題点」を実体化させる方向に向いているような気がするので。
はじめまして。一連のエントリとコメント欄を興味深く拝読しておりました。
以下は、ナツさんとfurukatsuさんの議論が飽和状態に達しているように見えたので、考察される材料としてご参考までに(既に読んでおられましたらすみません)。
furukatsuさんと私との短いやりとりです。
http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20061203/1165092273#c1165840362
まりねこさんの「煩悩の恋愛至上主義」という記事にトラバされた記事です。
「私は流行、あなたは世間」
http://fragments.g.hatena.ne.jp/Regret/20061217/1166314445
私の考察です(furukatsuさんの論理はかなりはしょって書いてます)。
「ハウルの城の革命家」
http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20061220
furukatsuさんとのやりとりでは、ナツさんが「叱咤激励する教師」の立場に立たれてしまっているように思われました。そうした意識は持っておられないと思いますが、読んでいてそう感じるところが多々ありました。
furukatsuさんはたぶん「解決」など望んでいない(できるできない以前に)のではないでしょうか。そこに処方箋を示すことは無意味に思えます。
もちろんこの意見は、ナツさんがfurukatsuさんとの対話を続けられるのが無駄だという意味ではありませんので、どうぞ誤解なさらないようにお願いします。「何か面白い視点が出て来ないかな」というのは、私も思っていることです。
どっも。
>「や、普通に恋愛しないで生きれば済む話じゃね? そっちの方法にしましょうよ。簡単だし」と言っているのがわたしやまりねこさんであり(結論は同じなんですよね)
まあ、私も似たような事は言っておりまして、それを「残酷」と感じる人もいるんでしょうね。
しかし、じゃあどう言って欲しいのかね?と素朴に思います。
「恋愛以外に楽しい事は沢山あるんだから、そゆ事見つければ?」
を否定されれば
「じゃあ、頑張ってカノジョ作れるように努力してね」
しかないと思うんですが、それもあかんのでしょ?
結局、自分じゃなにもせずに、かわいい女の子にラブラブして欲しいわけ?としか、結論できません。「母親のような無償の愛」というより、「キゃばクラや風俗のおねえさんのサービスを無料でしてくれ」と言う虫の良すぎる要求にしか思えないのですけどね(母親の子供に対する愛だって充分に打算もエゴもありますからね)
ただ、ナツさんなら永遠の平行線をたどることを解りつつもなにか新しい見解を見出せるのかも知れません。このあたりはちょっと期待してます。
●大野さん
はじめまして。大野さんの記事も、折々に読ませて頂いています。非モテやジェンダー関連で、よくお名前をお見かけするもので。
>furukatsuさんはたぶん「解決」など望んでいない(できるできない以前に)
>のではないでしょうか。そこに処方箋を示すことは無意味に思えます。
はい、それはわかってます。わたしはfurukatsuさんをネタ師ではないかと疑っているので、わたしの意見などで何か問題が「解決」するとは考えていません。ネタで非モテ問題を周知させることそれ自体が目的かな、と推測してますので。永遠の平行線と書いたのもその現れです。
ただ、furukatsuさんが「ルサンチマン型非モテ」を故意に演じているとしても、そういう非モテの闇雲な自己承認欲求と欲しいものが与えられない苛立ち(の垂れ流し)に対して、第三者はどう思うのか、を示すことにはなっていると思います。無自覚な非モテも大勢いる気がするし。
非モテ問題が深刻なんだと世間様に思わせるためには、今の方法じゃまずムリ。本気で狙ってるならもっと違うアプローチを考えたらいいのにと思います。
というわけで、むしろ自分では突き放してる気がするのですが。叱咤激励なのかなあ。
わたしとfurukatsuさんだけでは話がループなのはその通りですね。
ちなみに、furukatsuさんが街頭で懸命にビラ配りして、1時間に5人しか受け取ってくれなかった、なんて記事を読むと、「そんなの無駄じゃん」と突っ込んでいたことも忘れて、なんだかわかんないけどがんばってくれ、と無闇に応援したい気分になることも事実です。これをドンキホーテ・コンプレックスと勝手に名付けてみました。
●イカフライさん
>結局、自分じゃなにもせずに、かわいい女の子にラブラブして欲しいわけ?としか、結論できません。
そういう人もいるかと思うけど、furukatsuさんに限っては、そこを否定することで革命に走った非モテなんですよ。「かわいい女の子にラブラブして欲しい(承認されれば何かが変わる)」という期待が全部消えたわけではないだろうけど、少なくとも「女がラブラブしてくれなかったから悪いんだ!イケメンにはやってるくせに!顔で差別しやがって女死ね」という方向には走ってない。
そこを理性で抑制した結果が、「暴力革命・恋愛関係の全否定」という逆ギレだった、というのは興味深いです。
方法論の是非はともかくとして、本田透でもなければミソジニー・バックラッシャーでもない、第三のスタンスであることは確かですから。
>ナツさんなら永遠の平行線をたどることを解りつつもなにか新しい見解を見出せるのかも知れません。このあたりはちょっと期待してます。
や、それやりたかったんだけど、やっぱりムリっぽいです。わたしはむしろ違った視点を持った人が話に入ってきてくれないかな〜と思ってるんですけど。
わたしは、自意識・自己救済という切り口で非モテ問題に興味を持っているのですが、これっていわば小乗なんですよね。furukatsuさんは大乗といえる。ここにお互いこだわっていたらどうしてもループになるのは致し方ないかと。
>ナツさん
レスありがとうございます。
>ただ、furukatsuさんが「ルサンチマン型非モテ」を故意に演じているとしても、そういう非モテの闇雲な自己承認欲求と欲しいものが与えられない苛立ち(の垂れ流し)に対して、第三者はどう思うのか、を示すことにはなっていると思います。無自覚な非モテも大勢いる気がするし。
furukatsuさん個人についてはちょっと保留なのですが、その効果はあると思います。ここでのやりとり(「非モテと共同体」も拝読しました)を読んでいてそれは感じました。
>むしろ自分では突き放してる気がするのですが。叱咤激励なのかなあ。
言われていることはまったく正論ですし、基本的にとても親切な方だなあと感心しています。読んでいて、思わず「はい反省します」という気分に時々なりました。一方で、でもそれを受け入れられないのが非モテなんじゃないかという感じです。
私は、これはネタではない、(多少パフォーマンス的な部分はあるにしても)「故意で演じている」のではないというふうに、どこまでもマジベタで受け止めることで、その動機の強さを確認してみたいということがあります。だからfurukatsuさんとこのコメ欄でも、それはテロに行き着くしかないと書いたわけですが。
>なんだかわかんないけどがんばってくれ、と無闇に応援したい気分になることも事実です。これをドンキホーテ・コンプレックスと勝手に名付けてみました。
はは。なんとなくわかります。
「恋人の一人もいないと」という雰囲気がメディアの煽りで消費がらみで強まったのは80年代だったと思うのですが、当時私の世代は20代でした。そのツケや歪みをきちんと批判することなく、後の世代に残してしまったという気持ちがどこかにあります。その風潮に乗ってなくても傍観者として何もしなかった。‥‥そういうことも、私が非モテを強く批判できない理由にあるのかもしれません。
>わたしは、自意識・自己救済という切り口で非モテ問題に興味を持っているのですが、これっていわば小乗なんですよね。furukatsuさんは大乗といえる。
そうですね。ジェンダーの問題も深く絡んでいるような気はします。それについて、興味深い記事がありました。
「イケメンは女性に優しい。(非モテにまつわる抑圧の話)」
http://d.hatena.ne.jp/Paris713/20061221
まだやってるんだー。よく続いてるなぁ(笑
って、茶化しちゃ駄目だよね。うん。
>「俺はモテたい」とストレートに彼女を求めてあがいているようなモテない人
私が主にこのタイプの人に目を向けて、こうしたらいいかもよ、とか言いたくなってたのは、リアルにそういう人がいたからだし、ネットの中でも、昔はまだ非モテなんて言葉なくて、モテないとか言っても雰囲気がギスギスしてなかったっていうこともあるけれど、いま、
>「見捨てられた子供の疎外感」というか、「自己承認を求めて苦悩する存在」というもの
まで考えちゃったら、マジな話、私には何も言えないなーって思うのね。もしリアルに目の前にそういう人がいて、心の中で泣いていたり怒っていたりしたら、きっとなんにも言わずに手をとるとかハグするとか、そういう非言語コミュニケーションに頼ると思う。けど、ネットでそれは無理じゃない?
なんていうか、そういう問題って他人には本当にはわかってもらいづらいことでしょ。ケースバイケースだし。酷なようだけど、自分で乗り越えてくしかないような気がするのね。そばにいて見守ることはできるけど、そういう問題意識をもってない人には口出しできないような領域だって感じで、少なくとも私には、そんなの無理だよっていうか、むしろある意味、私の個性からくる不用意さが知らず知らず、そういう人たちのデリケートな部分を逆なでするんじゃないか?って思っちゃう・・・だから、そこは見ないし触らないの。
>恋愛が自意識の問題と切っても切れなくなってしまい、「恋愛するか、死ぬか、ふたつにひとつ。それが問題だ」という所まで心理的に追い込まれてしまっているということです。
恋愛の果てに死んだ文学者や絵描きや普通の男女はたくさんいるけど、表向き恋愛できないからって理由で(ふられた、はまた別)死んだ人の話はまだ聞いたことない。それが出てくるのが、これからの世の中?
なんていうか、もっと肩の力抜いて、少しでも毎日の生活で楽しいことや嬉しいことを見つけて生きることから始めたらどうかって気がします。あー、人生相談のオバサンみたい(笑
新しい見解になるかどうかわからんのですけど、こういう流れなら書いてみるのも無意味ではないかな、と。あくまで個人的な経験ですんで、参考になるかはわかりませんが、せめてたたき台にでもなれば。あらかじめ書いとく。長文失礼。
俺はfurukatsuさん大筋ではマジで書いてると考えてます。俺はアホなので「アホでもわかる明解さ」がないといろいろなことが理解できなくなります。つまり恋愛資本主義ならば、自分の周辺に「恋愛資本主義は確かに存在する」という感覚を持っている人が存在していなければ理解できないんです。まあこんなのは確率の問題なんですが、世の潮流というレベルになれば、俺も一人や二人、そう感じる人見たことがあってもおかしくないなあと。
それがないとなると、理屈で理解するしかないんですが、ここでも俺のアホさ加減が邪魔してます。つまり「人はみんな幸せに生きたいはずだ」という前提を崩すことができないんです。furukatsuさんの意見からは「我々は現状こうである」というのは読み取れても「だからこのようにしたい」という理想が読み取れない。ご本人がみずから「まだ具体的には思いつかない」みたいなこと仰ってましたから、まあそういうことなんだとは思いますが、アホの人としては、そこがわからないとなんにもわからん、という話になってしまうわけです。
で、以下が自分の経験から書き起こす話です。彼女いない歴29年、これはもうだめかもわからん、と思ったあるオタの人が「しかし俺は死にたくないなあ、どうしたら楽に生きてけるかなあ」と考えた結果のことなんかを書いてみようと思います。ちなみに現在は既婚です。
まず社会に問題がある、という選択肢はまったく思いつきませんでした。もし社会が悪かったところで「いまこの瞬間」ものすごく生きづらい自分になにかしてくれるわけじゃないからです。金やるから好きにエロゲやって仕事しないで生きてっていいよとかだれも言ってくれません。自分でどうにかするしかないわけです。
いちおー当時の俺の状況は、かなり強まった二次好きの人だったのですが「いくら好きになっても、俺が話しかけても観鈴ちん笑ってくれねーな」と思って、その道は挫折。そして似たような強まっただめ人間の友人(もちろん男。ホモとかじゃない)と同居、という感じでした。
この状況で「あー、俺一生結婚とかできねーなあ」ということで、いろいろ考えてみたのです。
まず考えたのが、60歳70歳になったときどーすんのか、ということでした。金あればとりあえずどうにかはなるでしょうが、なんにせよ孤独に死んで行く覚悟だけは必要でした。性の問題がある以上、男性が幸福を求めたときに、女性と結びつくのは自然ななりゆきで、自分が「仲間」と思っていた人に対して「俺を見取るまで一緒にいてくれ」とは要求できないからです。最悪野垂れ死にの覚悟がなければ、一般的な意味での「家庭」を形成しない人生を受け入れることはできなかった。
次に考えたのが「まったくの一人で生活していけるのか」ということでした。この問題には、たぶん個人差があります。食ってくためには仕事しなきゃだめなんですが、仕事ってのはだいたいにおいてやりたくないものなので、自分一人を食わせるためだけに仕事なんかする気にならないわけです。あー、なんかもう大して生きる意味ないかなー、死んじゃってもいいかなー、みたいな気分にすぐなる。これは幸福じゃないです。死んじゃってもいいかなーと思うんだったら、たぶん死んだほうが解決としては手っ取り早い。しかし、実際に死んでみようと思って怖くなった俺としては、その選択肢は最初から「避けなければならない」ものだったわけです。足かせと言ってはなんですが「俺はがんばらねばならん」と思えるだけの「愛するもの」は絶対に必要だと思った。ほかのだれでもない「俺」を必要とする人間が必要だと思った。
そして最後に問題になるのが「世間の風あたりの冷たさ」ですが、俺そういうのもともと感じない人間なんで、これは問題ないと思いました。不動産が借りにくいとか仕事における信用って問題はありますが、これは努力でどうにかなる範疇です。
で、これらの条件をもとに、以下のように考えました。
まず、仲間を見つけよう。俺と同じように、とりあえずフィクションを喜びとし、とりあえずセックスとかしなくてもそれなりに自分で楽しみを見つけられて生きていける人間。それを探そう。そして、そういう人間がある程度集まって、緩やかな同居形態を築こう。実際の生活において、カゼひいたときにだれもいないってのは、死にたくなるときの筆頭です。そういう緊急時だけでも「大丈夫か」と言ってくれる、緩やかな信頼関係を築けたらいいんじゃないか。
次に、養子でも取れたらいいなーと思った。世のなか不幸な子供の供給はいくらでもあるわけで、そうした子供たちの一人でも引きとって、緩やかな共同生活のなかで「愛すべき存在」として育てていけたらいいな、と。現実的には難しそうですが、まあまったくの不可能でもねーかな、とは思った。問題があるとしたら、俺がロリかつショタであり、男女どっちを養子にとっても危険極まりねえってことくらいで(すごい問題です、それ)。
とにかく俺には、モデルとすべきものがなにもありませんでした。手探りでもなんでも「女性に受け入れられない自分」のままで、生きていくほかないと思った。俺は社会の変革を否定しているのではなく、自分の経験から考えて「そんなエネルギーなんかねえ。死にたくならないだけで精一杯だ」という思いがあるのです。もし「革命を起こすこと」そのものが自分のエネルギー源になっているのだとしたら、それは革命が成就したときに、自分のエネルギー源がなくなることを意味する。永遠の革命なんてありえないわけで。俺のいう「現実的」とは、この世界のなかで「死にたくならないで、それなりに楽に呼吸していくための」現実的な選択肢、という意味合いです。俺にとっては、便所行きたいのに便所が見当たらない。さあどうしよう、というのとごく似た問題でした。方法としては「街中に公衆便所を作ろう」と運動するか、あるいはそのへんで見つからないようにするか、さもなくば「そのへんでもらしてもオッケー」というように世のなかの常識を覆すか、コンビニに駆け込むか。俺が考えていたことは、公衆便所に近い便所を備えた緊急避難所を作ろうかな、みたいなことだったんだと思います。ふつう家まで慌てて戻ればいいんですが、俺には家がなかった。だから、まだだれも見たことのない緊急避難所を自力で作りたい、と思ってたんです。とにかく、だれかが便所作ってくれるまで、我慢するのは無理でした。たとえが下品ですんません。ほんっとすんません。
ちなみにこれでは自己承認の問題についてはまったく解決してないような気もするんですが、俺にとっては「愛される」よりも生きるために「愛する」ものが必要だった、というのがその解答に近いんだと思われます。
以上、なにがしかの叩き台になれれば。
>MK2さん
はじめまして。ブログの方、大変面白く拝読してます。奥様との出会いを書いたエピソードも、心を打たれました。自分が生きるために他者を「愛する」という選択は非常によくわかります。私が結婚した動機もそれに近いものがありましたので(MK2さんほどの切実感は薄かったですけど)。
ただ難しいのは、furukatsuさん始め非モテの問題には、多くの場合、性愛をめぐる強い承認欲求が抜き難く絡んでいることですね。
MK2さんがそこをどうクリアされたのかなと思いました。「性の問題がある以上、男が幸福を求めたときに、女性と結びつくのは自然ななりゆき」と書かれているのを性愛欲求の昇華願望と捉えていいのか、家庭(家族)願望と捉えていいのか、その両方なのか‥‥ということもありますし、今までの御発言を見ると性愛には重きを置いておられないようなので、そのあたりできればちょっと伺いたいです。
そういうところはもうとっくに解脱したという理解でいいのでしょうか。確かにそういう非モテの人もいるようです。しかし多くの人は、そこまでいけないのではないかと思うので。
もう一点、人間不信に陥っていた人が、他者を「愛する」自分を見出したというのはとても大きなことだったんだろうなと想像するのですが、そこで「愛されない」可能性は省かれていたのでしょうか。エピソードからの想像ですが、奥様がMK2さんを求めているのに、MK2さんはそれが人間不信によって最初できなかったというふうに思われました。奥様は辛抱強くそこにいらしてきちんと受け入れ用意はあって、MK2さんが自ら「愛する」のを待っていた、というような。
そうすると、これはおそらく非モテにとって想像し難い事態なわけです。
たぶんこの話から、他者を愛するということはどういうことかという教訓を学ばねばならないのでしょうが、「非モテにとっては、そういう女性がいるということが、そもそもありえないんだよ」みたいに思われるかもしれない‥‥と思いました。少なくともfurukatsuさんはそんな感じではないかなと。
さて、furukatsuブクマコメントの「ちょっとまちなー」を無視してどんどん書きます。
「革命」志向についてですが、furukatsuさんを支えているのはおそらくヒロイズムだと思います。自分以外のすべての救われない非モテを「同志」として「愛する」ことによってのみ、自己承認するという立場に自分を追い込んでいるように私には見えます。これまでそういう「自分一人が救済されることは望まない」という観点を出した人はいなかったわけで、これはある意味画期的なことです。それで私は初めから、これをネタとは読まないことにしたのです。
「革命」の後のビジョンは(まだ)ないというのも、普通に考えられる革命からしたら奇異なことですが、これを、ヒロイズムを含めてむしろ肯定的に捉えられないものかと思っています。
なぜかというのはまだうまく説明がつきません。だってユートピアのビジョンのない革命など誰にも支持されないし、よく行ってテロリストとして断罪されて終わるしかないのですからね。人から見たら狂気に近いわけです。
だから支持を得るには方法が間違っているというナツさんの指摘は、確かにその通りで、間違っていると言ったら論理の立て方から間違っているのです。これについては烏蛇さんの記事をどうぞ。
「「非モテ」の敵は「恋愛」に非ず」
http://d.hatena.ne.jp/crowserpent/20061222
ただ、希望も理想も見出せなくなった人に理想を語れというのも、無理なことだろうと思います。だからと言って暴力に直結していいのかという批判は当然あるでしょうが、これは非常に微妙な問題です。
furukatsuさんの論理には飛躍があるとは言え、暴力革命に至るための正当な理由づけとして組み立てられているので、暴力はいけないと言ってもなかなか批判にならない。やりたくてやるんじゃない、論理的にはそこに至らざるを得ないのだと言われていますし、これを巡っての対話が一番難しいんだろうなと思います。
私は、furukatsuさんの恋愛の全否定が理解できます。
自分もかつて「恋愛感情など無価値だ、無意味だ」と思い込もうとした経験があるからです(但し経緯は異なるでしょうが)。そして、自分だけ痛い思いをしなければならないなんて、我慢できない、他人ももっと苦しめばいい、と願ったことがあります。
私も、自己承認に他人を必要としていました。
そこから抜け出そうとした時、私は私を変える必要があるとまでは思い至りましたが、じゃあどう変わればいいのかというと「完全無欠になる」か、「Aセクになる」かのどちらかでした。
まず「完全無欠」の方ですが、私のフルスロットルな自虐心を上書きできるほどの完璧さと言うと、まずIQが240くらい必要です。もしくは空を飛べて目からビームが出せるとか、実は闇の組織に追われた超一流の殺し屋であるとか、荒唐無稽としか思えないほどの特徴を必要としました。
このあたり、All Or Nothingの極端な思想であるとして非モテのメンタリティと共通しているかもしれません。
次に性欲、恋愛感情を一切無くしたいという欲求に関してですが、アセクシャルという言葉を知らなかったので当時はこれが私にとっての「恋愛の否定」でした。しかし、生まれつきの性質でどちらも持ち合わせしまっているので、ハンストと同じく、長くは続きません。
おまけに男嫌いが昂じて「レズビアンになりたい」とか言うのと同じくらいふざけた考え方です。
頭を剃らずに尼になれない私は、残念ながらこの考えも却下しなければなりませんでした。
この頃の「愛されないかもしれない、いや、きっと誰からも愛されない」という恐怖の実態は、「将来への漠然とした不安、絶望」だったのかもしれないと、今では思います。私は常に、未来の自分の姿に怯えていたんですね。
若さも気力もある今なら耐えられる。でも、一生は耐えられないかもしれない。その耐えられなくなる瞬間を想像すると、身が竦む、という感じです。
自分を「自分の理想通りに」改善できないため、私は一向にマイナス思考のループから抜け出せずにいました。自己解決しないので当然(?)世間を呪います。
しかし、他人を攻撃するということは、他人の価値観や立場を否定し壊そうとすることですから、客観的に見れば、これは他人が自分を全否定し罵倒する光景と重なります。それは私にとっては非常に恐ろしいことであり、私が私の生き方を容認するためには、他人への攻撃もまた、あってはならない、との結論に達しました。
学校の中で、仲良く談笑する男女。あー、あいつら妬ましいな、羨ましいな、椅子持ってぶん殴ってやったら気分良いだろうか?と考えたとしても、それはすぐさま、その二人の男女から自分が殴られている光景にすり替わるので、暗澹たる気持ちになります。
そこで、暗い気持ちになるのは、この考え方が自分の規範の中で正しくはないからだ、と思い直したのです。
そんなわけで、furukatsuさんの行為は革命というか、「自爆テロ」に映ります。
私の場合は「世間から抑圧されている」という思いが根底にあったのではなく、楽しく恋愛をしている自分しか「自分が認めてくれない」という思いから逃れるため、恋愛否定に走りました。
みんな、紙で切り抜いた人形みたいに一様であれば幸福になれるのに、とか、みんなぶっ壊れてしまえ!とか思ったこともありますが、結局痛いのはイヤなので、離脱してしまった次第です。
これ、言ってしまうと非モテの方に非常に非難されると思うのですが、「こんな自分は大層格好悪い、大嫌いだ」という線引きがはっきりある人や、「自力で幸福になる力を得たい」と願う人は、比較的救われやすいような気がします。高すぎる理想に苦しんでいるだけなので。
自虐心のみの人は…駄目かも。ハッピードラッグぐらいでしか救われないかもしれませんね。そしてその自虐心を植えつけた原因として外的要因も挙げられると、確かに思います。その外的要因にほんの少しでも抵抗する手段の無かった人が、非モテとして名乗りをあげているのですから、残された道といったら暴れるくらいしかないかもしれません。
他人の尺度を内面化してしまうほど客観性のある人が、他人の気持ちを内面化する客観性を持ち得ないという矛盾が、難しいところなんですかね。自分だけ我慢しなきゃならないなんてずるい、という考え方を変えられないのが非モテだと思っているので、彼らの救われる道は…修験者になるとか、同志たちの村を作るとかくらいしか思い浮かびません。
非モテというカテゴリ内にも色々あるそうですが、「おいオマエラ!俺が愛するから俺を踏み台にしてさあ羽ばたけ!」と言っても誰も寄って…きませんよね。
>なんだかわかんないけどがんばってくれ、と無闇に応援したい気分になることも事実です。これをドンキホーテ・コンプレックスと勝手に名付けてみました。
おお、奇遇ですね、私もそう。
特に12月24日のアキバ行動は応援しててませ、ホンマ。あたしゃ、仕事で一日中忙しいだろうけれど(いや、私のことなどどうでも良いが)。
ただ、furukatsuさんのは、このあたり考えてもネタだと思う。非モテリアンに対しては、そんな気になれないもん(^_^)
furukatsuさんは以前私に「非モテの苦しみを軽く考えすぎている」といっていたところからしても、ネタ師という言い方が悪いならば、非モテリアン救済の第三の手段をシュミレートしようという実験のように思えます。
だって、受け答えに余裕がありすぎるんだもん。
●大野さん
>でもそれを受け入れられないのが非モテなんじゃないかという感じです。
そうですね。わたし自身も正論で諭されれば、「正論うざい。救ってくれる気がないなら説教するな」と思うタイプなので、正直あまり意味はないだろうなあと思います。
で、正論で諭されたとき自分がどうしたのか思い出してみると、その人に対してとことん絶望し、弱味を見せなくなりました。もう二度と説教されたりするもんか、お前なんかにわたしは救えないんだ、だから自力でどうにかするしかないと。
正論を受け容れず、救われないことを悟り、絶望することによっても、時にエネルギーは湧いてくるという話なんですけど。わたしは「はいはい。そーだねそーだね」と聞き役に徹することができないので、だったら身も蓋もない正論でも吐いて絶望させようと。全然親切じゃない(笑)
ご紹介の記事(ジェンダーについて)も興味深く読みました。昨年の議論で、似たようなことを言っている非モテ論者がいたと思います。ここから「フェミニズムが非モテを抑圧している」論に流れていくわけで、フェミは女性は救っても非モテは救わないじゃないか、という不信感が根強いですね。大野さんのブログでもそういう議論を拝見しましたし。
ジェンダー規範のゆるやかな解体は、女を楽にしても非モテは楽にしないのか。今は過渡期だからではないのか。男女が非対称である以上、永遠に変わらないのか。そこは気になるところです。
それと、furukatsuさんをネタと疑いつつ一番マジレスしてるのはわたしなので、結局の所大野さんとスタンスは一緒かなあ。と。佯狂と同じで、ネタだとしても動機の強さに意味があるんでしょうね。
●まりねこさん
いったん始まると収拾が付かなくなるのが非モテ話です。わたしが悪いんだけど(笑)
>そういう問題って他人には本当にはわかってもらいづらいことでしょ。
>ケースバイケースだし。酷なようだけど、自分で乗り越えてくしかないような気がするのね。
その通りです。だから「自分で乗り越えていくしかない」ってことを言いたくなるんです。自分の心のやわらかい部分を、公共のブログでさらけ出し、「世界の中心で承認を叫んでる」状態。これは他人に解って欲しくて、何とかしてもらいたくて叫んでるんだな、と解釈します。本当に絶望した人間は、いくら独り言だと言っても絶対にあんなことは書けない。他人に対する期待があるから苦しむ。そして、これだけ喚いていてもいつまでも救ってくれない他人への恨みをつのらせる。悪循環です。
んで多分、非モテの方も、「単純に恋愛問題として片付けられたくない」という思いがあるんじゃないかな。だからってわたしみたいなツッコミも迷惑さで行けばそれ以上でしょうけれど。「うぜーわかってるんだよ!」と思われてるに違いないけど、議論になった以上は言いたいこと言うもんねー(笑)
まりねこさんの楽天的なとこは好きだけど、オタクになれないfurukatsuさんには「楽しいこと」を見つけるのすら困難みたいだから厄介なんですよ。
たぶんfurukatsuさんにとっては、このままの社会で恋愛せず生きることは生きながら死んでいるも同じなんだと思います。そこまで思い詰めてないと「革命だ」という飛躍にまでは至らないだろうなと。
●MK2さん
>furukatsuさんの意見からは「我々は現状こうである」というのは読み取れても
>「だからこのようにしたい」という理想が読み取れない。
自己承認(救済)できない以上は他人の手を借りないとならないわけですが、それに基づいて「このようにありたい」という望みを正直に開陳すると、「誰かに何かをしてもらいたい」という“要求”になる。しかし、それを他人に強要することはできないので、袋小路に陥ってる気がします。「自分が主体的・建設的にこうしたい」という発想はないのだと。(革命という破壊以外は)
だったらコミュニケーションを全否定して誰も恋愛できない、みんなバラバラの社会になれば、孤独なのは自分だけじゃない、みんなそうなんだから平等だ、という話なんじゃないかと勝手に推測してるんですが。
その「バラバラの社会」にも具体性がないんですよね。
>俺にとっては「愛される」よりも生きるために「愛する」ものが必要だった
「愛する」ためには自分の愛情を受け容れて、「あなたに愛されて嬉しい」と喜んでくれる存在が必要ですが、furukatsuさん型の非モテは、「俺はキモイ」という自己規定により、自分に愛されて喜ぶ存在を想像することすらできないんだと思う。
愛するものが必要→でも俺なんかが愛したらみんな「キモイ」と言うだろう→つまり、俺の愛は愛する人にとっての暴力だ。
ここでまた袋小路ですよ。
だからまず「俺はキモイ」という内面規定を取っ払うしかない。どんなに難しくても。この作業をすっ飛ばして何かしようと思っても不可能なのに、その不可能事に挑戦してるのがfurukatsuさんであるわけで。
大野さんと質問がかぶるけど、MK2さんはそこをどうやってクリアしたんですか?
●簾さん
>私のフルスロットルな自虐心を上書きできるほどの完璧さと言うと、まずIQが240くらい必要です。
>もしくは空を飛べて目からビームが出せるとか、実は闇の組織に追われた超一流の殺し屋であるとか、
>荒唐無稽としか思えないほどの特徴を必要としました。
すみません。全然関係ないんですが腹痛い(笑)(笑)
簾さんの「完全無欠」のイメージってX-MENかゴルゴですか(笑) 目からビーム出てる人はあれ、自分では悩んでるんですよ。
そのギャグセンスがあってなぜ当時モテなかったのだろう。わたしが男なら惚れてました。
こんにちは。
自分の恋愛体質((c)山本文緒)に嫌気がさしている私としては、自分が恋愛できないことを他人に文句つける人に対しては、「こっちだってしたくてやってないってば!」とキレたくなります笑
ぼちぼち30も近づいてくると、彼氏彼女だの恋愛だのの話をしているほうが、身持ちが固まってなくてかっこ悪くて馬鹿っぽいように思えてくるので、若い非モテな人たちは皆早く歳を取っちゃえばいいんじゃないでしょうか。
>MK2さん
養子っていいかも。その視点はなかった。
というか実は、
>俺がロリかつショタであり、男女どっちを養子にとっても危険極まりねえってことくらいで(すごい問題です、それ)。
にめっちゃウケました、というのが書きたかっただけでした。お邪魔してすいませんでした。>ナツさん
>ナツさん
>で、正論で諭されたとき自分がどうしたのか思い出してみると、その人に対してとことん絶望し、弱味を見せなくなりました。もう二度と説教されたりするもんか、お前なんかにわたしは救えないんだ、だから自力でどうにかするしかないと。
正論を受け容れず、救われないことを悟り、絶望することによっても、時にエネルギーは湧いてくるという話なんですけど。
そういうのが何となく「上」からのような気がするのです。相手に悟らせ絶望させるのが目的なのですか?もしそうだったとしたら、ここで改めて対話の場を設定する必要もないのではないでしょうか。
>それと、furukatsuさんをネタと疑いつつ一番マジレスしてるのはわたしなので、結局の所大野さんとスタンスは一緒かなあ。と。佯狂と同じで、ネタだとしても動機の強さに意味があるんでしょうね。
その動機の強さを甘え、自意識の問題だとして、徹底的に論難されてきたわけですが、私はそれだけに還元できないのではないかという気がしています。
ナツさんはそもそものきっかけが、furukatsuさんのスタンスへの大きな違和感や疑問だったように見受けられました。そこからおそらく違うのでしょう。
>自分の心のやわらかい部分を、公共のブログでさらけ出し、(以下省略)
もしfurukatsuさんと対話なさりたいのなら、他の人へのレスポンスであっても、もうそうした批判を書くのはやめられた方がいいと思います。既に十分お書きになったわけですし‥‥。
ちょっと横レスね。
>ぽいんつさん
> 若い非モテな人たちは皆早く歳を取っちゃえばいいんじゃないでしょうか。
私は40代で、この年齢だとリアルで現在進行形の恋愛はなしなんぞ出るのは皆無で、出ても過去の思い出話だからね。だから、今、ネットで非もて非もて言っている人達は10年後どう思うのかな、とか考えることもあるわけよ。 ただ、40過ぎて一人だと老後の孤独っていうのはよりリアルになるからなお深刻じゃないか?というレスをくれた人もいるのですが。
そのあたりの話になると、恋愛とはまだ別の話になりそうですね。
>大野さん
>そういうのが何となく「上」からのような気がするのです。
私は全くそう思わないけれど、あなた自身がナツさんの態度を「上から見下ろしているようで気に入らない」と思うのでしたら、読むのをおやめになるほうが精神衛生上良くありませんでしょうか?
己のダメダメさを徹底的に悟って絶望して、そこから始まる対話もあると思いますよ。てか、場合によってはそこからしか対話は始まらない。MK2さんにしても、かつて自分が最低のオタクで自分が世界を拒んで、拒んで、拒んだ挙句に二次元にのめりこんで、けれどそんな最低ヤロウにもいやおうなく生じる他者との関係性の中で世界が自分を拒んだのではなく自分が世界を拒んだことに気がついて、今があるわけですから。
なんだかこう一生懸命がんばったんだけど、がんばればがんばるほど結局空気読めてない感満々!みたいな感じかもしれないMK2です。でも一生懸命がんばらないと、みなさんがなにゆってるかわからなくなってきます。
>大野さん
自分の経験を書くにあたって迂闊だったなーと思ったのは、俺、いろんな点で特殊事例なんですよね、おそらく。だからそのままベタに経験を書くんじゃなく、もう少し一般化した視点で書くべきだったんでしょうけど、もう書いちゃったからしょうがないや☆(すみません……)
「性愛をめぐる強い承認欲求」って、ぶっちゃけ「ちゃんとセックスできないと俺、男になれない」みたいな感じでいいんでしょうか。俺のテキストをご存知のようなんで、少し端折って書いてしまいますと、二次元に逃避するにあたって、いちばん邪魔なのは性欲だったわけです。だから俺の努力は「どうやったら性欲を否定できるか」という一点にかかっていました。「承認欲求が自分にもあるのは百も承知だ。しかし俺が選んだのは二次元の世界だ。ならば性欲はあるべきではない」という構造になっていたと思います。しかし現実に性欲ってのははけ口を求めるもので、俺かそこで選択したのは(現実の女性には必ず拒絶される、という根拠のない思い込みもあって)、リアル性欲はとりあえずちっちゃいこに向けとけ、というものでした。冗談めかして書いてますが、早い話かなり濃厚な変態性欲者だったわけです(いまはそうじゃないのか、というのはとりあえず関係ないので忘れます。忘れました)。しかしそれは「実行できない」という絶対の制約のもとでの変態性欲者であって、つまり「俺には性愛をめぐる承認欲求はある。しかし俺の欲求は実行することができない→諦めろ。妄想にとどめとけ」ということです。
堂々巡りを自分のなかに巧妙に構築することによって「承認欲求のあるなしの問題ではない。それは不可能なことなのだ」と問題をすりかえていたわけです。以上はすべて無意識の領域で行われていたことで、結婚してから「なんだ俺成人女性ぜんぜんだめじゃないじゃん」とか気がついたあとになってから「こんな構造じゃなかったのかな」と思っただけです。
だから、解脱といえばいえますし、逃避といえば、まあそれも当たってます。
他者について比較的冷静に「男女の結びつきは安定的に幸福になりやすい」という観念を受け入れることができたのは「俺は変態だから」という確固たる前提があったため、ほかの人すべてが「俺とは違う正常な人」に見えていたせいです。たぶん。
ただ、俺のこうしたまちがった構造は、うちの奥様に会う前にすでに破綻していました。フィクションでは自分救われないんだなーという絶望の後に。観鈴ちんは俺を愛してくれないらしい。とはいっても、さあどうしよう。そこで周囲を見渡してみると、この世界には人間がいっぱいいるらしい。こんなに世界には人間がいっぱいいたのか、とびっくりしてうろうろしていたら、たまたまうちの奥様に引っかかった、というような状況かと。うちの奥様が言ってたのは「あと数年会うのが早かったら、きっとあんたは、私がなにをしてもフィクションの世界から出てこなかった」ということです。
つまり、まず自分ひとりの経験として「フィクションの世界を失った俺が、一人で生きてくのは、こりゃ無理っぽい」ってのが先にあったわけです。また、テーマからはズレますが、コンビニの店長という仕事をしていくなかで、無数の小さな経験の積み重ねの結果「俺は現在のままの自分では、たぶんどうにもならない」ということを理解せざるを得なかったというのもあると思います。自分どんなに嫌われるクソみたいな人間でいる努力をしても、周囲の人間すべてとの関係を絶とうと思っても、必然的に憎まれたり、あるいは好かれる可能性は否応なしに存在してしまうということ。当時の俺にとって不幸なことに、徹底したフィクション作品の読み込みは、現実の人間関係に関する経験の乏しさと裏腹に、一定の人間観察力を育ててしまっていたため、相手が自分に好意を抱いている(少なくとも悪意を抱いていない)状況を、曲解することができなかったのです。つまり「自分が完全に愛されない特殊な存在である」ということを信じるには、現実を、人間を見る能力がありすぎた、ということです。
ごく単純に比較の問題でいえば、俺よりもfurukatsuさんのほうが、より人間に対する絶望と誤解は激しいため、人間はだれもが懸命に日々の生活を生きている健気ないきものである、という平凡な認識に到達することは難しいのだと思います。これに気が付かなかったのが、俺空気読めてねーなーとちょっと反省したあたりです。反省するだけならロリコンでもできるらしい。
「愛されない可能性」ですが、これこそが俺を最後まで苦しめたものでした。
俺には他人が必要だと理解し、うちの奥様と出会い、うちの奥様にも俺が必要だということは理解できたものの、それは、うちの奥様にとって「俺という都合のいい道具」を手に入れたということなんだろう、としか認識できていなかったのです。俺という人間の「機能」も、また他人に役立つ可能性がある。であるならば、その対価の分だけ俺はその人のそばにいることが「許されている」。そこまでが理解の限界でした。まあそこから先は大野さんの仰るとおりで、うちの奥様は実に辛抱強く、はなくて、実はものすごく短気に俺を矯正しにかかったんですが、まあ結果としては一緒なので、そんなことはどうでもいいです。
順番としては、
1 俺はフィクションという自分にとっての絶対の逃避場所を失った。
2 そしたら周囲の人間がよく見えるようになった。
3 なんだ、俺、ちょっと顔おもしろくて仮性包茎なだけのただの童貞じゃん。でもロリコン。いたたたた。
4 さて、さびしいなあ。どうしよう。
5 うちの奥様にくどかれた。
6 ものすごい勢いで、真人間に矯正された。
てな感じになります。
4と5のあいだに飛躍があるのはそのとおりです。ただ4の段階で俺はすでに、一種の信念をもって「俺は愛される可能性がない」と断言できる人間ではなくなっていて、単なる悲哀の漂う独身男となっていたわけで、うちの奥様と出会ったのは、単なる通常の出会いでしかないといえます。もし時宜を得た出会いがなければ、フィクションの夢から覚めなかったほうが、おそらくはまだ幸福でいられたはずです。しかし、いずれにせよほかの人との出会いを待って、日々をなんとなく生きていたと思います。人間不信だろうが変態性欲者だろうが、とにかく俺には「だれかと濃厚な関係を持つ」以外の選択肢が、4の段階ですでになかったのです。ナツさんが「とことん絶望しろ」といっているようなことが、俺にとっては1にあたっていたわけです。
俺が思うに(まあ憶測にしかなりませんが)、furukatsuさんを初めとする非モテの人の多くには、こうした「根本からの絶望」が訪れていないのではないか、と思えてなりません。まあ別に訪れて嬉しいもんでもありませんが。俺は絶望というのは「そこから這い出すには、自分の足で歩き出す以外、どういう手段もない状態」みたいな感じで認識してます。そしてそれは、たとえば「あの夜」というかたちで、記憶のなかに焼け焦げのようにこびりつき、何度でも甦るような性質のものなんじゃないでしょうか。自分の足で歩くしかない、と知った人たちの多くは「自分が歩きはじめた瞬間」をきっと記憶していることと思います。「ここまで歩いてきた自分」に誇りはもっても、その瞬間のことなんぞ別に思い出したくもないような、そんな瞬間。
なんか解答がすっとぼけまくってるような気がするんで、不明点などありましたら、また質問してください。
>ナツさん
これですねー、俺、自分をモデルケースにするのあんまりよくなかったと思います。というのは、自分の「愛」(いーかげん自分で書いてて気色悪くなってきました)が「キモい」色彩を帯びてくるのは、こと「恋愛」に関してだけだと思ってたので。だから子供ならいいと思った(おい)。人によってコンプレックスの性質はいろいろとあると思うんですが、俺は自分が男性の肉体を持っていることそのものがコンプレックスになっていて、俺の変態性欲の根底の原因はたぶんそれです。だから、性愛がからまなければ、人を愛することはできるし、その愛は、自分さえ細心の注意を払っていれば、だれかに対する害にならないと、能天気に信じていたんです。もっともそう思えたことの裏側には、現実的な性愛への諦めがあったわけですけど。性愛を通じて女性と幸福を分かち合うことは、したいとかしたくないとかではなくて、単純に「不可能」だと思い込んでいたんです。
たぶん、多くの非モテの人と俺を分けたのは、この「諦め」なんだと思います。俺は諸般の事情により、女性とは幸福は築けないけど、ほかの人は幸せにやったほうがいいと思うよ、みたいな。性欲あって困るけど、これはしょうがないよねにんげんだもの、という。
考えてみれば、俺が見た世界に「恋愛資本主義」なんぞないのは当然かもしれないと思えてきました。俺にとって恋愛をすること、男女が幸福な関係を築くことはそもそも「いいこと」だったわけですから。
「どうやってクリアしたのか」という質問に対しては「そもそもなにもクリアしてない。あるいは最初からクリアしてた」ということになると思います。
ただ、非モテといわれる人たちが、そこまで全方位的に自分の愛を「暴力」と思っているのかは疑問なところです。別に自分孤独じゃなくて幸せになれるのであれば、恋愛じゃなくても形態はなんでもいーじゃん、と思うのです。まあ、そう思う人間なんてそう多くないんでしょうけど。
>ぽいんつさん
いや、けっこう真剣に悩んでました。
まだいもしない養子について「もしひざに抱っこしたときに下半身が反応したらどうしよう」とか悩んでるのは……それ性的妄想と一緒じゃん! 俺ぜんぜん現実的じゃなかった!
MK2さん、御丁寧な説明ありがとうございました。
>「性愛をめぐる強い承認欲求」って、ぶっちゃけ「ちゃんとセックスできないと俺、男になれない」みたいな感じでいいんでしょうか。
それはどっちかというと強迫観念に近い感じがしますね。単純に、異性から異性として意識されたい、異性と愛し合いたいという欲求です。「性愛欲求」としなかったのは、それだけなら二次元でも満たすことはできるからです。
あと、「変態性欲者」というのは「望ましい男女関係という規範」から見た言葉であって、人の性は多形倒錯である(人は誰でも多かれ少なかれ変態である)と言われているので、なんら問題ないと思います(実力行使で人権侵害になる場合を除いて)。
それと関連して、MK2さんが性欲のあり方について述べておられる中には、恋愛志向はないですね。そこが興味深いなと思いました。奥様との出会いも恋愛とはまた違った感じ(友愛とか同志愛に近いもの)に思われましたし。
MK2さんの絶望は、「フィクションという自分にとっての絶対の逃避場所」を失った時であるということですね。これはたとえば本田透が、二次元では決して充足できないと気づいてしまった時(気づかないようにしてると思いますが)と似たものかなと思いました。
つまり「大切なものを失ったという絶望感」です。そうすると、新たな避難場所、生きるために「愛する」ものを自分で見出さねばという欲求が立ち上がってくるのは、必然的なことかと思います。
furukatsuさんはオタク的要素もあるようですが、最初から避難場所がない感じがします。もともと持っていない、失うものがないから、失ったという絶望感はない。ではなく、「手に入らない(ことを確信している)絶望感」であろうと。
それも社会的地位とか優雅な生活とかいったものでなく、多くの人が手にいれているように思われる根源的な欲求の充足であり、異性からの承認を取り付けられることがその人の人間的価値までも規定しているかのように見える(例えば普通の男女関係を営めないロリコンは異常者だとか、いい歳して結婚してない男はどこかおかしいのではないかとかいった偏見)状況があるので、いっそう絶望に拍車がかかるのではないでしょうか。
そこが、MK2さんと位相がやや違うのかなと私が感じた点です。それで、「とことん絶望しろ」という言葉がなかなか通じないのではないかという気がしています。
>俺は絶望というのは「そこから這い出すには、自分の足で歩き出す以外、どういう手段もない状態」みたいな感じで認識してます。
それは一般論としては実に正しいと思います。
しかし実際モテないということを完全に内面化し、この承認欲求(勝手に欲求があるという前提で書いてます)は他のものでは代替できず、また、恋愛できないことによる見えない抑圧に苦しめられていると思った場合、どこに向かって歩き出せばいいのかわからないわけです。
そこで「恋愛さえ否定すれば」となるのは短絡だとは思いますが。
なぜMK2さんにいろいろ質問させて頂いたのかと言いますと、やはり根本的なずれがある感じがしたからなのです。
MK2さんもナツさんもご自分の実感から導き出された普遍性(ある意味普遍的な言葉を語っておられると思います)に基づいて話されています。furukatsuさんもご自分の実感が中心なわけですが、この問題を自己責任論に還元されることを拒否しているし、人間はどんな状況からも自力で這い出せるものであるという考え方もとっていないですね。
これは互いの立ち位置の違いもさることながら、論理の立て方というか、物事の認識のベクトルが全然違っているからではないかという気がします。
で、非モテとそうでない人が対立するほど不毛なことはないとも思います。非モテの真の敵は、そうでない人にとっても問題あるものではないかと私は感じます。
ただここにも、問題意識を共有できるか否かという問題が横たわっているのですが。
●大野さん
>そういうのが何となく「上」からのような気がするのです。相手に悟らせ絶望させるのが目的なのですか?
>もしそうだったとしたら、ここで改めて対話の場を設定する必要もないのではないでしょうか。
いや、それはこちらの言いたいことです。話が転倒してます。
furukatsuさんは「コミュニケーションなんか不可能だ」と言い、恋愛なんて妄想に踊らされるのは愚か者だと恋愛経験者を断罪し、「男も女もモノである」と規定しています。ここで対話しているわたしも彼にとっては「モノ」だと言われているわけです。今の社会と人間すべてに対する絶望宣言です。
でも、furukatsuさんが本当に我々に絶望しているなら、それこそ対話の必要はないじゃないですか。ゴタゴタ言う前にテロでも起こした方が理屈に合ってます。
だからこれらの主張は、「俺をここまで追いつめたのはお前たちだ。反省しろ」という逆ギレのパフォーマンスであって、本心ではないんじゃないか、と疑ったわけです。「モノ」と断じた我々に対して真に絶望しているようには見えないのです。ちゃんとコミュニケーションできてますから。
パフォーマンスのために人間を「モノ」と断じ、「恋愛に踊らされてる奴は裸の王様」と嘲笑するのだとしたら、その人は非難されても当然です。少なくともわたしは腹が立ちました。(彼を見下しているなら腹も立たなかったと思いますが、対等な立場で対話してるわけですから)
だからパフォなのか、本気で言ってるのかはっきりしろと。人にまだ期待しているくせに、「男も女もどうせモノだ」と厭世家を気取ってるなら今のうち引き返した方がいいとコメントしたんです。それは不特定多数への断絶宣言であり、攻撃ですから。
本当にコミュニケーションを否定するなら、他者に期待をしつつ他者を攻撃するより、とことん絶望して自力で立ち上がる方が何かが変わる可能性が高い。逆に絶望の淵で自論を純化することによって、ニーチェになれるかもしれないし。
他の方も言うように、「不特定多数の人にあえて不快な思いをさせ」た上での「革命」なのだから、覚悟を決めてスタンスを突きつめて欲しい。目的と言えば、これが目的です。
>>自分の心のやわらかい部分を、公共のブログでさらけ出し、(以下省略)
>もしfurukatsuさんと対話なさりたいのなら、他の人へのレスポンスであっても、もうそうした批判を書くのはやめられた方がいいと思います。
これはfurukatsuさんに特定した話じゃないんですけども。無防備に自意識をさらけ出すことと、悪循環の恐怖を語ったものであり、自分のことも含めて書いたつもりです。
「他人には自分を救うことはできない。自分に他人が救えないように」と納得するまで、叫んでも救ってくれない世の中全員への恨みと苦しみは続きます。昨年も書きましたが、そういう経験を経てきているので。
永遠に納得がいかなければ最終的には自爆テロしかない。furukatsuさんには今のところ革命後のビジョンがない、破壊欲求だけですから(しかも全破壊したとしても「キモイ」という自意識は残るんです)、なかば本気で懸念してます。
>その動機の強さを甘え、自意識の問題だとして、徹底的に論難されてきたわけですが
動機そのもの、つまり苦悩は共感できると言っております。しかしその苦悩が他者への恨みや闇雲な攻撃に転化されれば甘えです。わたしの批判しているのはそこです。
今の社会の価値観とそこに生きる人間を全否定し、自分達こそ正しいとすることは、大乗と言いましたがカルトの考えと本質的に変わらない。「神」を掲げない分うさんくささが減少しているだけで、自意識を救うために他者を否定すれば反発されて当然です。
わたしは一般大衆の最右翼みたいなもんです。本気で革命を起こすなら、まずわたしのような頭のかたい愚民をどうにかしなければならない。
感情レベルでは自意識の苦悩に共感しつつ、しかしそのために他者を全否定するとなれば反発し、ポストモダンだのウェーバーだのペダンティックに理論武装されれば「ハァ?」と首を傾げる愚民です。一番多いタイプだと思います。
そういう立場で言いたいことを言うのも、ありじゃないでしょうか。
大野さんは知識人の理解者であり擁護者。人それぞれでいいと思います。
●大野さんに ↑ の続き
大野さんとスタンスが同じと言ったのは、「ネタではなくガチ」と想定してfurukatsuさんと対話していることについてですよ。
ネタ疑惑は消えませんが、ガチと思わない限りは話が進まないので。(そして結局マジ怒りしている(笑))
>非モテとそうでない人が対立するほど不毛なことはないとも思います。
それには同意です。ですが、人を最初から拒絶しているのは彼らではないかと思うのです。「俺はお前らに絶望してるんだ」とか、「恵まれてる奴は俺に謝れ」とかいう意識を持たれていては、せっかく問題意識が共有できそうでも、それ以上近づくこともできません。
恋愛するもしないも人それぞれ、あなたのことを認めるから私の生き方も認めて欲しい、という運動ならいくらでも賛同するんですけど。
●ぽいんつさんとイカフライさん
>若い非モテな人たちは皆早く歳を取っちゃえばいいんじゃないでしょうか。
周囲の抑圧からは解放されるだろうけど、「誰にも愛されず承認されない」という自意識の問題は残るんですよね。「男」としてのアイデンティティが異性に愛された経験でしか育たないのならば、同性との関係性もぎくしゃくすると思うし。
「社会的抑圧」が問題であったのならば、これで楽になるのは確実なんですけど。
●MK2さん
MK2さんは怒りが他人や社会に向かっていない、そもそも怒ってもいない非モテ(だった)という所からして特殊なんだよなあ。だからといって自責の念で押しつぶされてもいないし。
人間不信型の非モテは、常に怒りを抱えているから異性が寄ってくることがまず無い。そして、「俺は今までに多くのものを失ってきた。だからこれ以上何も失うつもりはない。むしろ与えられる側になって然るべき」という気持ちがあるんじゃないかと。
たとえ女性が近づいてきても、自分から何を奪おうとしているのか疑い、自分に何をしてくれるのかばかりを確かめ、恋愛どころじゃない気がします。
MK2さんのいう「相手にとって役に立つ道具」であることは、こうした非モテには耐えられないと思うし、しかし自分の価値を信じることもできないので、道具以外としては愛してもらえないと思いこむ。
八方ふさがりなんですよね・・・。
>まだいもしない養子について「もしひざに抱っこしたときに下半身が反応したらどうしよう」とか悩んでるのは……それ性的妄想と一緒じゃん!
おい・・・せっかく前のコメントではスルーしていたのに。もうベタベタにエロゲの世界じゃん・・・。
「おにいちゃん、おしりのとこになんかかたいものがあたってるよ」「そ、それはポケットのライターだよ」という展開になるんでしょどーせ!
>ナツさん
私のナツさんへの言葉が、また更なるfurukatsuさんへの批判の言葉(の反復)を引き出してしまったようです(ああ逆効果)。
ナツさんのこれまでの批判は理解しているつもりです。だから正論だと書きました。私もfurukatsuさんの「人をモノと看做す」という考え方には飛躍を見ています。にも関わらずコミュニケーションすることは、矛盾と言えば確かに矛盾でしょう。このあたりの理路はまだつめられてないまま、性急に主張されてしまっている向きがあると思います。
で、そうしたfurukatsuさんのスタンスに対するナツさんの「批判の中身」に疑義を呈しているのではないのですよ(以下少し長くなりますが御容赦下さい)。
向うが自分勝手な苦しみを訴える言説を垂れ流しているのだから、こちらも向うを慮ってやる必要はないということはあるのかもしれません。しかしそれは単に違う立場にいる当事者同士が、当事者性の名のもとに主張をぶつけ合っているだけのことになってしまい、そうした議論がループするのはもう見えたわけです。「彼らが最初から人を拒絶している」「いや拒絶され続けてきたのはこちらだ」ではラチがあきません。
既に議論は尽くされていると思います。その上で、新しい視点を見出したいと言われながら、一方でまだfurukatsuさんを論難するナツさんのスタンスが、私にはわからないのです。それをやったら、またループにはまります。まずこれが一点です。
furukatsuさんはここで自分が俎上に上げられているので、議論しに来たのでしょう。コミュニケーションを無視しきれないところは、furukatsuさんの生真面目さであろうと思いますし、ロムしている人へのプロパガンダの意図もあったかもしれません。ナツさんも一旦は、furukatsuさんがきちんと対応されていることに対して評価しておられましたね。
発言内容や態度に甘えや矛盾がある、あるいは傲慢で横暴な論であるとして、批判することはまったく自由です。議論はそういうものですから。
が、それに被せて「私は彼を突き放し、悟らせ絶望させようとした。後は自力でどうにかするしかないだろう。私はそういう体験をしている」(これは私とのやりとりから、明らかにfurukatsuさんを想定して書いていると読めます)とまで書いてしまうのは、なぜなんでしょうか。
「突き放す」というのは、精神的優位に立ち、相手が一方的に甘えてきた場合に行われる行為です。それを言明してしまうことは、議論内容とは直接関係ないところで優位性を誇示することです。そんな意識はなくても、言説の効果としてそうなるのです。これは「上」からの目線ではないのでしょうか。
対等に議論してきたつもりの相手にとって、これは失礼な発言でしょう。ナツさんがfurukatsuさんの発言の内容が他の人にとって不快なもの(暴論)だと言う、そのこととは別に、ナツさんのなさっていることは議論上のマナーを逸していると私は感じました。もしそういうことを言いたいなら、二度と議論はしないという覚悟が必要だと思います。
前の議論で感じたことを少し書きます。
人が絶望し、ただ絶望しているだけじゃいられないと思って言論活動を開始した時に、「絶望が足りない」と言っても仕方ないと思います。もし「とことん絶望しろ」と思われるなら、それはfurukatsuさんの精神活動を支える非モテ革命構想が完全に破綻したと御本人が認識された時であるわけですから、むしろ「どこまでも行け」とエールを送って見守っていた方がいいくらいです。
ですがナツさんは、furukatsuさんに「自意識の問題」を説かれてきました。「普通に恋愛しないで生きれば済む話」だと言っていると、この記事にも書かれています。そして、ネタだと見ているとも(「「ネタではなくガチ」と想定して対話している」なら、こういうことは言うべきではないです)。
以上を考えると、ナツさんにとって「革命」など問題外の話で、それが暴力革命であろうが無血革命であろうが別のものであろうが、その方法論など議論するに値しないことになるのではないでしょうか。すべては自意識の改革によって解決するはずだと、もう結論を出しておられるのですから。
そもそも、あとは暴力による打破しかないというところに向けて論理を組み立てている者に対し、その理不尽さを普通の市民感覚から非難しても無意味です。するなら、たとえば烏蛇さんがしておられるように、論理の不完全さを冷静に分析して納得を得ていくしかありません。
また付け加えておきますが、私は非モテの「理解者」でも「擁護者」でもありません。私に「理解」されても非モテの人も困るでしょう。ただ非モテの問題にはセクシャリティ、ジェンダー、消費の問題が深く絡んでいると思っていますし、それは私自身の抱える問題でもあるので、考えてみたいのです。それらの分析を、furukatsuさんご自身が言論活動の中でやってくれればいいなとは思っております。
私はナツさんのブログは面白く読んでいるし、ご発言に示唆を受けるところもあるので、ここに初めて書き込む気になりました。私の感じたひっかかりを書くのは勇気が入りましたが、少しでも気にとめて頂ければと思っています。ここでの議論が実りあるものであることを期待しています。
>大野さん
横レスですけど、以前、烏蛇さんのところの奢り・奢られ問題についての掲示板での議論中に、
>furukatsuさんのような暴力的選択が出ていくるのは、必定です。「革命」は成就しないでしょうが、まったく無駄だとは私は思いません。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/comic/3875/1164632176/?KEYWORD=%A1%D6%B3%D7%CC%BF%A1%D7%A4%CF
と発言されていましたが、これはfurukatsuさんに対する「上から目線」ではないのでしょうか?
ナツさんの
>身も蓋もない正論でも吐いて絶望させようと
などの発言が上から目線だとしても、一定の共感を表すか反発を表すかの違いで、あなたご自身のfurukatsuさんへの目線(該当の発言は私には上からのものに見えます)を言語化してしまってしている事には違いがないのではと思います。
言われた側の「憐れまれた感」については大して変わらないんじゃないかと思いますよ…。
敵対的なポジションか友好的なポジションかの違いがここでの問題なんでしょうか?
『なんとなく』『上から目線』『優越感』→印象批判
そんなつもりではない。いやアンタは莫迦にした。と
水かけ論になる事は必然
そして印象で人を批判したからには
己も印象で批判されることを許してしまう
普段から自虐的なまでに腰の低い論客でないかぎり
誰にでも綻びが必ずあるもので
今度は自分がぼこられる側になってお仕舞い
なんだかアフォな視点を自分で持ち込んで
墓穴ってる人がいるなぁぁとしか思えませんねwww
furukatsuって若いんだろ?
年上女が揃って構ってやっているのだからある程度
『上から目線』
になるのは当然じゃネーノ? 非モテだからじゃなくて
>MK2さん
下半身反応したらだめじゃんΣ(゚□゚||)
>イカフライさん、ナツさん、
>「誰にも愛されず承認されない」という自意識の問題
そこで養子の出番なのが、「なるほど」と思ったんですよねぇ。
>「上から」云々
そもそも、自分だけは同じ目線で見れている、という思い込みは幻想でしょう。当事者じゃないかぎり、同じ立場で話が出来るはずないですから。そうすると「お前は上から見てる」という揚げ足取りがお互いに対して延々と可能だと思うのですよ。でもそれやって何か意味あるんですかね。
>しぎこさん
誤解されているようですが、言い方にどういう印象をもつかではないのです。発言の位相の問題を指摘しています。
私の発言は「furukatsuさんの言われる「革命」についての所感」です。似たようなことはfurukatsuさんのブログのコメ欄にも書いていますが、議論内容について言っていることです。「どうせ無駄だと思うけどやってみれば?」でも同じです。言い方は関係ありません。
ナツさんの発言は議論内容についてではありません。furukatsuさんと真面目なやりとりをした後で、「私は突き放している」「悟らせ絶望させようとした」「あとは自分でどうにかするだろう」とメタ的なポジション取りをしています。
これは対等に議論していたつもりの相手が、後で他人に「彼のためを思ってあえて耳の痛いことを言ってあげていた」と言っているのを聞くのと同じことなんですよ。人によっては侮辱と受け取るでしょう。
二つの位相が違うということがおわかりになりませんか?
furukatsuさんが実際にどう感じているかということではなく、議論した相手が読める場所で言うべきことではないのではないか?ということです。
そんなことは誰もこだわらないからいいんじゃない?という見方もあるでしょうが、私は重要なことだと思っているので書かせて頂きました。揚げ足とりをしているつもりはまったくありません。
>どこに向かって歩き出せばいいのかわからない
あー、やっぱ伝わりにくいのはこのへんなのかなーとか思いました。これはたぶん、謙遜とかではなく俺の説明が悪いせいです。
とりあえず現在のところ非モテの問題に特に関わらなくていいはずの人たちが、なんでこんなにこの問題に関わるかって話ですよね。ナツさんも書いてましたが。
まあ、おそらくいまさら俺ごときが書くようなことでもないとは思うんですが。
ちなみに俺自身の「非モテ」の問題に関するスタンスは「しょせん自分のことなんだから自分でどうにかするしかない」です。そして、人は、そのとき楽しくて幸福であればそれでよくて、できれば死ぬまでその状況が続けばいい、くらいにしか考えてなくて、その目的が達成されるんであれば、人に迷惑かけなければ方法はどうでもいいと思っています。だから、furukatsuさんに対しても「このほうが方法としては楽なんじゃね?」ということしか言ってないです。それも俺が楽だと推測するからそう言ってるだけであって、furukatsuさんにとって重要なことはまた別かもしれません。
たぶん、どこかでループしてる話題だとは思います。既出確定、みたいな。
俺がここで「絶望」と言っているのは、そもそも「もう一歩も動けない」という状況のことです。あれもだめ、これもだめ、もちろん自分もだめ。なにもかもがだめで、身動きできないような、なんつーのか、自分が座っている床のすぐ下まで死が充満しているような状態のことです。きっと学術的にもっとすぱーんと表現できる言葉があるはずなんですが、俺はそれを知らんのです。えーと、ものすごく深刻な自己嫌悪みたいな感じ。疑問の底の疑問を掘りつくして、もうなにも掘れない状態。
実のところ、内面化でも承認欲求でもなんでも、きっかけはどうでもいいんです。
死ねればいっそ楽なんですが、なかなかそうもいかない。死にたくなければ、生きているしかない。そのためにはごはんを食べなければならない。ごはんを食べるためには買い物に行く必要がある。しかしそんなことひとつをするにも、玄関のドアまでのあいだに絶望が横たわっている。さあ、どうする。
家のなかに食い物がなければ、立って歩くしかないんです。しかし自分は食い物を買って食うことを許されている存在なのか。許されているとしたら、それはどんな権利においてだ。俺には生きている意味はあるのか。俺が生きていることは、存在していることはまちがいではないのか。しかしまちがっていたとしても、俺は生きていたい。でも、まちがっていたとしたら、舞い戻る場所はまた「ここ」なのだ。「ここ」はもういやだ。二度と「ここ」に戻らないために。まちがわないために。自分は正しくあろう。
俺も含め、考えかたが自己責任に傾きがちな人は、だいたいそんなような場所を通過してると思うんです。これももっとスマートに説明できる方法があるはずなんだけど……俺がそれを知らないばっかりに、長くなってすんません。さらに最悪「んなこたーみんな知ってるから」という可能性もあったり。それがいちばんアホっぽいですが。
もし大野さんが「上からものを言う」ように感じるのであれば、たぶんそれは上からものを言ってるんでしょう。上からってのが語弊があれば「furukatsuさん(に代表される非モテの人たち)は、まだ『あの場所』に至っていない」という立ち位置からものを言ってるんだと思います。まあ推測ですけど。
そして、少なくとも俺は、俺という「人間」は「あの場所」からすべてが始まったと思っています。自分以外だれもいない暗い部屋のなかで、床に散らばったがらくたみたいな「自分」と「世界」を、絶望の底にいても消えることができなかった「俺」という人間が、手作業で組み立て始めたあの瞬間に。
その作業を経て、はじめて俺はまともに「他人」というものを認識できるようになりました。他者による自己承認によって「俺はここにいてもいいんだ」という、階段から蹴落とされたような「気づき」のような現象が起こることは否定しません。それは身をもって知っています。
しかしそれ以前に「おまえは何者だ。なぜ生きているのか」という問いに対し「死にたくないからだ。俺は生きたい」と答えられなければならないと思うのです。人間は食うことですら拒めるんです。食うことは、生きることは自分の意志です。死にたければ死ねるんです。そして世界は人間を生かしてはくれません。生活保護を受けるのだって自分の意志で動かなければならない。「死ね」と命じる世界に、「おまえは泡沫だ」と断言する世界に拮抗して屹立している人間である以上、自分にまつわるあらゆることに関しては、自分でどうにかしなければならない。そこで「自分はこういう人間である」と、とにかくどうにかこうにか主張しながら生きていけるようになったとき、他人もまた「こういう人間である」という看板を必死で守って生きている、という平凡な事実が認識できるようになった。恋愛であろうが友情であろうが、すべての人間関係はまずそうした地点からしか始まらない、と俺は考えるんです。もちろん、外見とか金持ってるとかそんな感じで恋愛のようなことをしたり結婚したりする人間もいますが、それはバカなので、バカはバカなりにバカとくっついてせいぜい日本の人口を増やすことをがんばってくれればそれでいい(しかし、そうした人たちにもそれなりの真実のきらめきはたぶんあることを俺は否定しません)。
ナツさんやイカフライさんのような人が、furukatsuさんを議論の相手にしているのは、たぶん「もったいない」という気持ちがどこかにあるんじゃないかと邪推するのです。あれほどの知性と、そしてワケの
わからん行動力をもったおもしろそうな人が「恋愛」という一点において袋小路に入っている。そこなんとかすれば、もっと楽になれるのに。もっとおもしろい人になってくれそうなのに。あくまで邪推ですよ? 推測ですらないです。
これを上からの視点というならば、それはそうなんでしょう。
「論理の立てかた」が違うといえば、たぶんそのとおりだし、「物事の認識のベクトルが違う」といえば、それもそのとおりだと思います。
ナツさんや、俺も含めて、自己責任論者が「非モテ」の問題に拘泥しがちなのは、問題の本質が恋愛ではなくもっと根本にあるからで、そしてfurukatsuさん(何度も引き合いに出してすんません。「に代表される非モテの人々」と付け加えて読んでください)のような場所を、みなが通過してきているからです。少なくとも俺に限っていえば、furukatsuさんの問題が他人事とは思えないから、いらんこと書いてしまったわけです。自己責任論で動く人は、上からもの言うもなにも、たとえばfurukatsuさんになにかをしてあげられるとも、影響を与えられるものだとも思っていないはずです。
ちなみに俺は、自己責任ということに関して、それがいいことだとも悪いことだとも思ってません。たまたま俺は、そういう人間になってしまった、あるいは自分の意志でなった、というだけのことです。俺からみてfurukatsuさんに問題があるとすれば「自分の問題で人に迷惑かける可能性がある」という一点だけであって、しかもそれすらが自己責任論者の立場からの考えでしかありません。俺から見て、furukatsuさんの考えかたは「幸福を追求するにあたって迂遠である」「考えかたに矛盾というか理解しづらいところかある」という点において疑問符がつきますが、それだってfurukatsuさんが自分なりの「正しさ」を証明できるのであれば(だからこそヴィジョンがないことが気になる)、あとは俺の意見に代表されるような正義と、furukatsuさんの意見に代表されるような正義と、どちらが多くの人に対して説得力を持ちうるか、ということでしかないでしょう(あえて自分の考えかたを流布させようとするのであれば、ですが)。人はだれでも、自分の幸福にとって利益になる方向に動くだけです。
>大野さん
ええ、印象ではなく位相の問題です。
「どうせ無駄だと思うけどやってみれば?」というのは、あなたが
>「革命」は成就しないでしょうが
とした言い方を、もっとはばかりのない言い方にすると、ということでしょうか?
それこそ言い方による印象の違いに過ぎなく、どちらにしろはっきり上から目線ではないでしょうか。
>メタ的なポジション取り
>対等に議論していたつもりの相手が、後で他人に「彼のためを思ってあえて耳の痛いことを言ってあげていた」と言っているのを聞くのと同じことなんですよ
と仰いますが、これとあなたの「位相」ってそんなに違いがあるんでしょうか?「人によっては侮辱と受け取る」であろうという事は、どちらにも違いがないと思います。
>furukatsuさんが実際にどう感じているかということではなく、議論した相手が読める場所で言うべきことではないのではないか?
>私は重要なことだと思っているので
との事ですが、要するに「人によっては侮辱と受け取る」の「人」って「あなた」の事なんですよね。「あなた」は議論相手からそういう扱いを受けるのは不当だと思うし嫌、という事。
それはそれでもっともな話だしそれでいいのですが、
>議論上のマナーを逸している
>二度と議論はしないという覚悟が必要
とまで、偏りのない審判のような注意の仕方ができる資格があなたにあるのでしょうか。
furukatsuさんがどう感じているかは、どっちにしろ分かりません。聞いていないんですから。
furukatsuさんは、「(恋愛における)階級意識のある・なしはあなたが判断しているんですよねえ」という私のコメントに対して、
>階級意識は、積極的な恋愛至上主義への反対という形で表れると思います。いわゆる、非モテ、もしくは喪男を自称する人々は多少のブレはあるとはいえ、積極的に恋愛至上主義、もしくは恋愛資本主義に対して反対の意をとなえています。一言で言えば、恋愛について現状打破的である事がポイントでしょう。
と仰いました。要するに、積極的に現状打破をしようとしない人間は貧富にかかわらず「ブルジョワ」であり自分たちに対する無自覚な抑圧者である、という訳です。そーゆー事真面目に(そうですよね?)言うんですから。
そういう考えの持ち主と本当に「対等」に対峙するなら、「暴力革命なんて許さない!!」と言って徹底的に理念闘争するか(とは言え、ナツさんの質問に対してのfurukatsuさんの答えがズタボロである事は既にごらんの通り)、仁義なき戦いなんですから「駅前でビラ配りしてる人たちがいまーす、迷惑でーす、許可取れてるんですかー?」と警察にチクって妨害するか(笑)、どちらかくらいしかないと思うんですが。
そんな事やってられませんよ…少なくとも私は。
>ナツさんやイカフライさんのような人が、furukatsuさんを議論の相手にしているのは、たぶん「もったいない」という気持ちがどこかにあるんじゃないかと邪推するのです。
ナツさんは解りませんが、私はfurukatuさんをネタ師だと思っていますから。ただ、体を張ったネタとして尊敬の念さえ抱いてます、実際にアキバで革命行動をしたわけですから。(自分、こういうのに弱いw)
少なくとも彼は非モテリアンではないと思っています。何故なら、彼は他の非モテリアン諸氏や非モテリアンではないが非モテ議論に携わる一部の人達に共通して見られるMAXな自己愛に裏打ちされた自己憐憫が無い。なぜなら、ミスや矛盾を指摘されると素直に謝るし訂正するでしょ。それに一見社会に責任転嫁しているようで、他者への責任転嫁も無い。
ただ、これはあくまで私の推測ですが、furukatuさんは本当に非モテ救済を考えているのかも知れない、と思いますよ。それこそ革命を。
だからこそ、危うさを感じるのですが。(それも含めて応援したい)。
あと、上から見下ろす云々ですが。
少し違う話に聞こえるかもしれませんが、私は自分で傷ついたと喧伝する人間は本当には傷ついたころがないと思っています。何故なら、本当に傷ついたことのある人は、それを喧伝することによってその傷口を押し広げて塩をすりこまれることを知っているから。
これは私の邪推ですが、なんとなくナツさんやMK2さんは本当に傷つきそれを超えてきた人のように感じられます。
だからこの、われこそ被害者・被差別者と恥も外聞も無くいいさらす非モテイリアンに苛立ちを感じるのかも知れません。
それが一部の(つうてもここでは約一名ですが)人には上から見下ろすように感じるのかもしれませんが。
なんか、見下してるとか見下してないとか、昨年と激しくパターンが同じで超デジャブ。→そして非モテの話から逸れる。
●大野さん
>「突き放す」というのは、精神的優位に立ち、相手が一方的に甘えてきた場合に行われる行為です。
>それを言明してしまうことは、議論内容とは直接関係ないところで優位性を誇示することです。
えーとですね。「突き放す」云々というのは、ぶっちゃけた話、大野さんが「親切だ」とおっしゃったので、それに対する反発なんです。(わたしは捻くれてるので少し皮肉っぽく感じました)そんなまっさらな気持ちじゃなく、残酷な気持ちもあったんだと。
自分の優位を確信している人ならば、furukatsuさんの逆ギレに見える主張も、「かわいそうに辛かったのね」と優しく受け止めるでしょう。「突き放した」とあえて書いたのは、むしろ自分の拙劣さ、余裕・寛容性のなさの表明のつもりでした。真逆に取られていたので驚いたんですが。
わたしが大野さんを「furukatsuさんの理解者・擁護者」と言ったとき、大野さんは「そんなんじゃない。自分の問題でもあるから拘ってるんだ」と否定されましたが、そこにも何となく反発が読み取れました(気のせいじゃなければ)。それと似た心理と思ってください。
まあ、いくらわたしがそう言っても大野さんが「上から目線」と言えば、他の方のおっしゃるように水掛け論になるしかないんですが。
>二つの位相が違うということがおわかりになりませんか?
わかりません。「大野さんの主観ではメタ的なポジション取りに見えた」、と言うことでしかないと思います。そしてしぎこさんが挙げた大野さんの発言にも、様々な印象を感じると言えば感じます。理解者としてのポジションを確保してから云々とかですね。主観ですけど。
んで、「上から目線」の話はこれで終わりにしていただきたいのですが。烏蛇さんの掲示板もずっとROMしていましたが、あれと同じで泥沼になりそうです。
次に。わたしはfurukatsuさんを「論破」するつもりはなく、「それっておかしくね?」と思ったらツッコミ入れるツッコミ体質なだけなので、「革命家」であれば「一般大衆」であるわたしのツッコミにくらいうまく答えて啓蒙してくれよ、と思っています。今のところ全然啓蒙されないので困ってるんですが。
わたし程度の愚民に矛盾を指摘されるような「革命理論」じゃ革命なんか起こせないでしょ。革命家としては無意味じゃね?と。
「新たな視点」を見せて欲しいんですよ。思わず考えさせられてしまうくらいの。それが「革命理論」ってものじゃないでしょうか。
(とはいえ、もうfurukatsuさんそっちのけで関係ない話になってますけどね)
これが大野さんにとって「無駄」だということはよくわかりました。でもそれなら、烏蛇さんのように御自分のブログで「無駄ではない分析」をしてTBを送って下さればよろしいかと思うんですけど。
●MK2さん
>「furukatsuさん(に代表される非モテの人たち)は、まだ『あの場所』に
>至っていない」という立ち位置からものを言ってるんだと思います。
確かに「furukatsuさんは自分より心も体も若い人(だよね?)」という意識はありました。わたしも昔同じようなことで悩んだなあという「先輩気取り」な気持ちも。
それが「上から目線」と言われれば、まあそうかもしれない。ウザくてすみませんと思います。はい。
>「もったいない」という気持ちがどこかにあるんじゃないかと邪推するのです。
あるある。ネットには他にもっと過激で排他的な非モテもいるけど、その人たちと対話する気にはなりません。furukatsuさんは言ってること無茶苦茶だから時にムッとするけど、破れかぶれの行動力と情熱があるし、色々ひねたことを言いながらコミュ能力は高い。要するにアンバランスなので、興味を惹かれましたね。
>なにもかもがだめで、身動きできないような
>きっと学術的にもっとすぱーんと表現できる言葉があるはずなんですが、俺はそれを知らんのです。えーと、ものすごく深刻な自己嫌悪みたいな感じ。
「アパシー」ってタームが近くないかな?
http://homepage1.nifty.com/gatagoto/1BanHome/utu/1banhom014.html
無気力・ひきこもりの心理と書いてあるけど、会社や学校には行っていても、心理的にはここからどこにも行けない、何もしたくない、ただ日々を消化して緩慢に死に向かっているような状態も当てはまると思う。「目的を見失ってしまったような息苦しさが感じられる」とリンク先にも書いてあるけど。
こんな感じの心理状態は経験しているので、思い出したくないですが。絶望の極致です。
こうなったのも自分の責任だと芯から納得し、幸福そうな人を恨むのもやめて、他人の幸福と自分の不幸にはまったく何の関連もないと腑に落ちる。
じゃあ自分は自分で幸せにならなくては誰も幸せにはしてくれない、幸せになるためには、自分にとって何が幸せなのか自分の価値観で決めねばならない、決めたらその幸せに向かって自分の足で歩いていかなければならない。
こういうことに気づくには、アパシー的な絶望の段階を経てからでなければなりませんでした。
つーか本当に警察来たのか!!
http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20061224
今読んだ。(遅ッ!)
呼んだの私じゃないっすよ?
議論が白熱しているところですが、なんとか行動も終り書き込みもできるようになってきたので、書き込みします。
なんというか、自分で分析するとメサイア・コンプレックスの気はあると思います。その意味では承認欲求を「救済活動」で得ていると換言できます。「相手の役に立つ道具」であるという自意識の問題であるとも言えるでしょう。
さて、自力救済が一つの有力な方法論であることは論を待ちません。今まで多くのモテない人は自力救済で解決してきたというのは事実です。しかしながら、自力救済出来ない人、今苦しんでいる人を救う為に闘うことは、やはり必要であると思います。プロレタリア階級も、被差別部落もそんなもんだと本人が思えば苦労はしても死にはしません、宗教的意識を持ち出せばその苦労こそ救済の確信となる場合すらあります。もちろん非モテの社会的抑圧は彼らよりも小さいかもしれませんが、目に見えない社会的抑圧は多かれ少なかれ存在しています。その受け止め方の問題というのは自意識の問題に還元できてしまいますし、自己責任という言葉に帰着させられてしまうものでもあります。非モテを自意識、自己責任の問題に還元出来るのであれば、派遣労働者の劣悪な労働環境を自己責任に還元出来るでしょう。自力救済が出来る人もいるけど、そうでない人も居る。だからといって彼らの苦しみは認められる物ではない。そういうことです。
また、烏蛇氏に指摘されているように、私の理論には様々な矛盾や問題を孕んでいます。当たり前のことですが、人間のやることですから間違いはあります。マルクスもウェーバーも現代まで様々な批判にさらされ続けてきたわけです。自分だけまったく批判されないなんてことはありませんし、もし批判されなかったとすれば注目すらもされていないという証拠になるだけしょう。
そしてまたナツさんの指摘するビジョンが無い問題は切実に感じています。とはいえ、活動と議論をする中でいずれ見つかると信じています。で、現状のビジョンをメタ的に述べるならば、それは永久革命です。私の言う恋愛革命が成就すれば、確かに非モテは解放されるでしょう。しかしながら、それは別の抑圧を産む可能性があるわけです。であるならば、その反動としての別の革命運動が出てくることでしょう。私はマルクスのように社会主義が人類史の終着点とは思いません(近代の終着点ではあったかもしれない)。ソ連がそうだったように、別の問題が生まれてくるでしょう。永久に革命を続けていくこと、そして非モテ問題はそのなかの一つであること、それこそ人類史というパースペクティブから見た非モテ問題の立ち位置ではないでしょうか。
>ナツさん
「上」からの視線問題については、水掛け論にならないために「位相の違い」について説明したのですが、ご理解頂けないようですし、これ以上の言及はしないでほしいということならそれで結構です。
議論が「無駄」だというのは、繰り返しますが、前と同じ議論や批判をここでまた反復することです。ナツさんも「この永遠の平行線に突破口が見出せるとは思えませんが、何か面白い視点が出てこないかな」と書かれているわけですし。
で、私は別の角度からの議論のきっかけになりそうな資料を、いくつかリンクし自分の見方も短いですが述べました。少なくとも前の議論では出てなかった視点はあると思うのですが、リンクの一部に触れて下さっただけで反応がほとんどなかったのは、非モテの「理解者」「擁護者」目線の意見だと看做しているからでしょうか? TBを送られた烏蛇さんの意見など、ナツさん達のこれまでの議論にとって「面白い視点」だと思うのですが、どなたにも一顧だにされていないですね。
>ナツさん、furukatsuさん、および皆様
リンクしただけで放っておくのも無責任なので、改めて自分の意見をまとめます。
自意識の問題はないとは言えないと思いますが、自分でそう簡単には客観的に言語化できないですし、他人がそれを指摘しても大抵失敗します。つまり「自己責任論」から一旦離れないといけないのではないかと思っています。
MK2さんは、恋愛の先の問題があると書かれましたが、根本に自己承認の問題があるとしても、その大きな障害となっているのは「恋愛」の問題です。非モテの問題はそこに顕在化していると思います。恋愛を、単に個人的な問題だけに帰することはできません。人間が社会的な動物である以上、その社会での恋愛の扱われ方、捉えられ方から、まったく自由でいることは難しいでしょう。
だから非モテの人は、現在の社会の中の恋愛をめぐる様相を、「恋愛至上主義」とか「恋愛資本主義」という言葉で言い表そうとします。結局は、社会にも私達(非モテを含めて)の中にも根強くあるジェンダーの問題が、非モテを苦しめていると思います。私はこの観点は重要だと思っていますが、重要じゃない人にはどうでもいい問題なのかもしれません。
かなり前ですが、「非モテ自身によるジェンダー分析が必須なのではないか」ということを、furukatsuさんのブログのコメ欄に書きました。女性に過大な期待をかけている非モテ男性も中にはいるだろうと思うし、一般に女性に対する能動性や積極性を求められる男性の立場において、一番ワリを食っているのが非モテ男性だと思うからです。
こうした性差に由来する諸問題を緻密にやったら、広がりが出てくるような気はします。
対立点をすごく平たく言うと、一方は、社会はこうなっているんだから、その中で個人が努力すべき。もう一方は、その社会がおかしい。つまり個人に軸足を置くか、社会的視点で見るかの違いがあります。この違いは現在あらゆる問題において現れています。例の「奢り」議論もそうでした。
自分の現実を引き受けることが精一杯で、社会をどうこうしようなんてことまで余裕がない。これは多くの人の実感でしょうし、私もそうです。自分さえなんとかなれば世の中のことはどうでもいい‥‥というふうにも思えませんが、結局は何をしても無駄だという無力感に囚われます。
しかしこういう退廃的な気分が一番いけないのではないかと思うので、furukatsuさんの言論活動には注目せざるをえないというところです。
「個人的なことは政治的(社会的)なことである」という命題に従えば、あのような活動、言説になるのは必然だと思います(これはフェミニズムの命題ですが、すべての革命についての共通項です)。
革命の論理に説得性がないというナツさんの指摘については、その通りだと思いますが、御本人が書かれているのでこれ以上の言及は避けます(革命を起こされる側は納得などしないという話もあります)。
批判対象は、実は「恋愛」そのものではないのではないかと思います。それを暴力的に粉砕するのは不可能なのはわかりきっていますし、かえって恋愛の価値を高めるだけでしょう。
烏蛇さんは「非モテの「敵」は恋愛至上主義」と書かれていました。ならばそれを具体的に実態化しないとならないだろうと思います。「恋愛至上主義」(なり「恋愛資本主義」)を利用して利潤を上げるということは普通に行われていることなので、最終的にはそうした消費の仕組みとそれを支えているものではないかと(あくまで私の考え)。
もしそうであれば、批判対象への批判、抵抗をいつまでも続けていくことで、それと共依存関係になってしまうという危険性もあると思います。例えばフェミニズムはその関係に陥っているとよく言われます。これはヒステリーの問題とも関連していることです。つまり批判対象(男性社会)との関係を完全に初期化してしまえばいいのですが、抵抗がアイデンティティとなっているのでそうすることができず、ますますその関係性を強化してしまうということです。
では抵抗しなければいいか、関係を初期化できるかというと、これも大変難しいわけですが。
あと、女性との関係で「男性」と認識されない非モテが、その能動性をこうした活動に見出すということはあるのかなと、アキバでの報告記事やコメ欄を読んで思いました。新左翼的言い回しそのもの(あれはネタだと言われてました)が「男らしい」ものですし。なんというかジェンダーが二重構造で見えるような気がしました。
世の中をひっくり返すことは現実的には無理でも(正直今はそういうふうにしか思えないので)、うまく行けば何がしかの問題提起を社会に向けて発することは可能ではないかと思います。
失礼いたします。
「ネタじゃないかと疑っているが、あえてガチだと受け取って議論を進めていく」
というスタンスなら、そのネタに乗っかって議論しないとまずいんじゃないですか? 現に噛み合ってませんし…。
大野さんがおっしゃっているのは、「ネタに乗っかっていないじゃないか」ということなんだと思いますが。
>大野氏
私の22日付の記事はまだ今ひとつ整理し切れていないので、ここで取り上げられにくいのは無理もないかな、と思います。(「恋愛」と「恋愛至上主義」の違いといった話については、umeten氏や大野氏のコメントを取り上げながら新記事で論じていきます。できれば今年中に上げたいと思っています。)
古澤氏の革命理論については、個人的には本田透とマルクスを援用している時点で「矛盾だらけで当然」という認識です。これについては古澤氏もはっきり自覚しておられますし、その上でより確かな議論を積み上げていくことも充分可能だと私は考えています。
そのためにはナツ氏のような突っ込みが大変重要なんですが、議論が空回りしている印象は確かに否めません。しかし、それはお互いの齟齬が大きすぎるからであって、ナツ氏の態度が原因ではないと思います。ナツ氏の「突っ込み」は揶揄するような所の感じられない誠実なもので、「上から目線」のものとは思えません。
>通りすがりさん
>大野さんがおっしゃっているのは、「ネタに乗っかっていないじゃないか」ということなんだと思いますが。
ええとちょっと違うように思います。ガチでされているのは事実なので、もうネタ疑惑はいいんじゃないかという意味です。
>烏蛇さん
新エントリ楽しみにしております。
ナツさんの「突っ込み」に関しては、正論であり、それによって議論が尽くされてきたと思いますし、平行線なのはナツさんの「態度」ではなく、何を重点に置くかの「考え方の違い」が大きいと思っています(ということは書きました)。
「上からの目線」というのは、その議論を括弧に括ったところで言われた一部の言葉について言ったものですので、ナツさんの議論を指しているのではありません(ということも書いているんですけど)。
●大野さん
>リンクの一部に触れて下さっただけで反応がほとんどなかったのは、
>非モテの「理解者」「擁護者」目線の意見だと看做しているからでしょうか?
いえまさか。ほとんどの記事は、実は昨年にも非モテ側からすでにある程度出ていた「視点」であり、わたしがこれは新しい分析だなと思ったのは烏蛇さんの記事だけでした。
そして烏蛇さんの記事は、尤もな分析ではあるんですけど今の流れでは取り上げにくかったので、取り合えずスルーしたまでです。
ジェンダー問題なども昨年は少し話し合われましたが、印象に依って認識が違うことも多く、立場によって実感が変わることが多すぎるのです。
ご紹介の「イケメンは女性に優しい」という記事でいえば、メディアでの女性の扱われ方、男性の抑圧の方が強いという話などには違和感があります。わたしの現状認識とは違うんです。となればたぶん、奢り問題のようにループにならざるを得ないと思ったので。
●furukatsuさん
クリスマス爆砕イベントお疲れさまでした。200人以上集まったというのを読んで驚きました。せいぜい2〜30人かな、と予想していた。ナメてました。自己批判します。それだけ集まればそりゃお巡りさんも出動するわ・・・。
ところで「デモの許可申請」って、主張内容とかも詳細に届け出るもんなんですか?次回はバレンタインだそうですが、「恋愛至上主義に踊らされた愚かなイベントを糾弾する。浮かれるカップルを自己批判せしめるためのデモ」とか。
>承認欲求を「救済活動」で得ていると換言できます。「相手の役に立つ道具」であるという自意識の問題
furukatsuさんは「相手の役に立つ道具」であってもいい人なんだ。
じゃ、例えばMK2さんのように、孤独で心に傷を抱えた異性に猛烈にアタックされた場合はどうなんだろう。「女なんか癒している余裕はない。俺の方が傷ついてるんだお前なんか俺に比べたら幸福じゃないか」と主張している非モテがいたので、「女性」の道具になるのだけは真っ平なんじゃないかと思っていたんですが。
まあこの「道具」って意識も激しく勘違いなのはMK2さんの書いてる通りなんですが、「人間はモノである」という認識に陥ってる人は、「どーせお前にとって俺は都合のいい道具なんだろ?」としか解釈できないので、欠落を抱えた異性に必要とされることが苦痛なのではないかと思っていたんですよ。
だから母親のように寛容で、幸福で、あらかじめ満たされた異性に、「あなたが私に何もしてくれなくてもあなた自身をそのまま愛します。あなたのしてくれることにでなく、あなた自身に価値があるから、存在してくれるだけでいいの」みたいに愛されることこそ真の愛だ!というドリームを見てるんではないかと。
(furukatsuさんは、「ホームレスを愛する美女の愛こそ正義だ」とおっしゃっていましたが)
そうではなく、心に傷を抱えた異性をも救済対象にしているメサイアコンプレックスなら、救って欲しがってる女性はゴロゴロいると思うんですけども。そういう女性を救うことによって異性からの承認欲求を満たすという方向性は可能でしょうか?
>現状のビジョンをメタ的に述べるならば、それは永久革命です。
資本主義を打倒して共産主義になったあと、腐敗が生じたら再度革命起こして資本主義に、みたいな考えでいいんですか?
国家の歴史を俯瞰すれば結果的にそんな感じになってはいますが、それにしたって、最初から打倒されることを前提に、例えばモテを抑圧するような社会を作って次の反動を待つって、そんなのありなのか?と思いますね。非モテ革命が成就すれば非モテは体制側になるわけですが、体制側になった階級が反動を待つことも、権力を手放すことも信じられないな。
で、永久革命を目指すとしても、とりあえず最初の革命が成った直後に出現する社会について、明確なビジョンが欲しいです。まのさんも突っ込んでましたが、極端な統制社会しか思いつかないんですよ。
>ナツ氏
大本営発表を真に受けちゃ駄目ですよー。(笑)
本当のところはこんな感じだったようです。
http://bokukoui.exblog.jp/4144606/
>>ナツさん
昔の私なら、そのような女性が居れば救おうとしたかもしれません。しかしながら、共依存になったり私が善意の押売りをしたり、また飽きてしまうという可能性も予見できるでしょう。また、このような形で私の欲求を満たすことは出来るかもしれませんが、しかし今の私にとっては恋愛革命が重要ですし、個人の救済は個人しか救えないものでしょう。
さて、真の愛があるとすれば、そのような理想的な母親の愛になるでしょう。とはいえ、現実に理想的な母親が極めて少ないように、男女関係においてもそのような理想的な愛はほとんど存在しません。私は完璧な人間ではありません、同様に恐らく私の関係する人間もまず完璧ではないでしょう。故に個人的関係で正義を実現する事は出来ず、現実的な打算と取引の関係にならざるをえません。私はこれを悪と言っているのではなく、そんなもんだと言っているだけです。
あと自分が道具でもいいんじゃないんでしょうか? 使えないゴミであるより、使える道具であるほうがマシです。
集会の人数ですが、ほんとは「のべ」で数百人程度(野次馬含む)だと思います。これはビラの配布数からの推定です。ちなみに、周りを取り囲んでいた野次馬は常時数十人程度でした。
>極端な統制社会しか思いつかない
私もです。まぁ、いずれいい案が思いつくでしょう。
すみません、またちょっと横から口出し。
>母親のように寛容で、幸福で、あらかじめ満たされた異性に、「あなたが私に何もしてくれなくてもあなた自身をそのまま愛します。あなたのしてくれることにでなく、あなた自身に価値があるから、存在してくれるだけでいいの」みたいに愛されることこそ真の愛だ!というドリーム
furukatsuさん・・・そういうドリームを持ってることを恥じてはおられないんですね?
自分の思う「理想的な愛」って現実にはほとんどなく存在しづらいからあきらめる、と。
それから、前にした質問ですがもう一度させて下さい。
「闘争」で何とかできるんならとっくの昔に誰かがやってるんじゃないかと思うんですが、その点についてはお考えになりました?
ドリームというか用語の定義の問題というだけじゃないでしょうか? その意味ではしぎこさんの考える「愛」というのを知りたいですね。用語の統一は議論の基礎です。
さて、人々は歴史上闘ってきたと考えます。
現代の自由恋愛というのは身分・家といった制度からの解放であったというのは事実です。その意味では旧来の封建的支配からの自由ではあったのです。
そして人々はこれを闘って勝ち取っていった。しかしながら、その勝ち取られた自由が逆に抑圧を産み出しており、そこからまた新しい自由を勝ち取らなければならないと考えるのです。
人類は営々と闘いによる獲得を繰り返してきたのだと、私は考えます。
昔の記事でナツさんが仰ってた事と同じですが、「あなたが私に何もしてくれなくてもあなた自身をそのまま愛します。あなたのしてくれることにでなく、あなた自身に価値があるから、存在してくれるだけでいいの」そこまでの無償の愛を受けるに値する、もしくは受けても不自然ではないのはせいぜい幼児か愛玩動物くらいのものです。
>現代の自由恋愛というのは身分・家といった制度からの解放であったというのは事実です。その意味では旧来の封建的支配からの自由ではあったのです
>その勝ち取られた自由が逆に抑圧を産み出しており、そこからまた新しい自由を勝ち取らなければならないと考えるのです
これは、かつては封建的支配が主流だったので今のあなたが行っておられるような方向性の闘争は必要なかったのだ、だからなかったのだ、というお答えだと解釈してよろしいですね?