しかしそうやってがんばってるうちには「あー、そうそう。自分もそういうのが正しいと思ってた」と言ってくれる人が現れる可能性がある。まあ現れないかもしれない。そのへんは運次第だが、少なくとも自分にとっての「正しさ」を共有できる人間を探す努力は絶対に必要だと思う。もっとも生きることを「引き受けている」人ってのは、否応なしに自分にとっての「正しさ」を撒き散らしながら生きてるようなもんだから、大して探すまでもなくお互いわかる可能性が高いんだけど。
人間関係のすべてが打算であると考える俺は、この「正しさ」を共有するというただ一点において、打算でない人間関係が成立すると信じている。自分はこうやって生きてきた。こうやって生きていくつもりだ。それを理解してもらえるということは(理解させるっつーことでもあるが)、そのまま「二人でこうやって生きていきましょう」につながる。一人で戦うことは孤独だが、理解者が一人いれば、それは全世界を手に入れたも同じだ。
非モテ議論を通じて思ったこと MK2さん/「ふたりでつくる」より
「わたしは<ともに生きる>という考え方を持ってきたの。これは愛以上のものよ。愛は硬くて悲しくてきたないことば、冷たいことば、古いことばです。いろんな意味をいっぱい詰め込みながら、ほとんど何も約束していない。わたしが持ってきたのは愛よりもっと大きなものなの。もしあなたが生きているなら、それはほかの命が一緒に生きてるのを、あなたが知っているということなの。―――あなたもあなたも、ひとりひとり、みんな誰もかれもがいっしょだと知っていることなの。
何をしてもいけない。つかんでは駄目、しがみついては駄目、抱えこんでは駄目。ただいるだけでいいの。それが武器よ。どんな火だって銃だって毒薬だって、これを止めることはできないわ」
コードウェイナー・スミス/伊藤典夫訳「シェイヨルという名の星」より
クラウン・タウンの死夫人 〜The Dead Lady of Clown Town
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