loading ...

2008年3月 3日

誰かのために心理的リソースをどれだけ割いているか

● この記事を読んで考えたこと。

甘えるなと言われ続けて育つと人を頼る能力が育まれずに、代わりに自己解決能力だけが発達するけれど、世の中的には最初から最後まで全て自力でやり遂げる(そうせざるを得ない)人よりも、他人を頼って学びながら徐々に成長する人の方がウケが良い。甘えてるのに。


人生の大切な局面で誰の助けも得られず歪んだ人は最後まで誰にも相手にされないけれど、恩師に助けられたり、きっかけを与えてくれる人が現れて乗り越える話はみんな大好き。甘えてるのに。
素晴らしい人の甘えは綺麗な甘え



他人の好意や愛情を信じ、助けを請う人、またそれが許されている人というのは、自分も他人に対する手助けを惜しまない人であることが多い。
わたしの妹なんかがそうなのだが、夜中でも友達に泣きながら呼び出されたら、しょっちゅう飛んでいって24時間営業のファミレスで夜通し話を聞いてやったりしていた。次の日に学校だの会社だのがあってもだ。
具体的な問題解決能力が優れているというわけではない。ただ、親身になって話を聞く姿勢だけはあるので、話を聞いてやって一緒に泣いてやる。そして「あの子がかわいそうだ」と、家に帰ってきてからも一人で憤慨している。
そういうタイプなので昔から自然と友人が多く、自分も泣きたいときは、どんな時間だろうが友達を呼び出して話を聞いてもらったりしている。つまり、相互に甘えられる関係性を自分の力で構築している。



ちなみに妹は、今までけっこうあちこちに住居を移しているのだが、北海道から東京に就職した時を除けば、たぶん一度も、引っ越し業者に頼ったことはない。友人連中が集まって手を貸してくれるからだ。
そのかわり、自分も友人の誰かが引っ越すとなったら、貴重な休日が潰れるのもかまわずにすっ飛んでいって手伝っている。自分も嫌な顔をせず面倒くさがらずに手を貸すので、友人にも遠慮なく手を貸してもらえるわけである。



わたしも人の引っ越しを手伝ったことくらいはあるし、友人の悩みに深夜まで耳を傾けたこともあるが、妹の場合は、いつでもどこでも呼び出せば助けてくれる友人の数もハンパないかわりに、逆に呼び出される回数も尋常ではなかった。わたしには友人関係にそこまでのリソースはとても割けない、とつくづく思う。
相当な体力と、自分の時間を他者のために使う気力がなければ、ああいう人間関係を長年にわたって継続することはできないだろう。身近で見ていれば、妹をうらやましく思う気持ちも吹き飛んでしまうほどだ。



わたしは妹とは正反対のタイプで、どちらに近いかと言えば、引用先のブログ主の性格の方に近い。友達は少ないし、コミュ能力も低いし、「甘え上手な人はうらやましいなあちくしょー!」と、恨みがましく思うことも日常茶飯事である。
ただ、前述のように、甘え上手の人(妹や友人)を観察してきた経験から、かれらが他人に一方的に甘えるばかりではないことをわたしは知っている。自分は何の見返りも与えないのに、一方的な甘えが許されている人間など、まず存在しないことも。
親しくない者からは一見してそう見えても、実際には本人も相当なリソースを割いている。それを負担に思うかどうかに個人差があるだけの話だ。
自分が泣きつくときだけ人を呼び出して、他人が困っているときは面倒くさがって手を貸さない、あるいは、「何か悩んでるようだけど、面倒だから気がつかないフリをしていよう」と知らんぷりするようなことが続けば、仲間うちの信頼は失墜するし、いずれ誰にも相手にされなくなるのは道理である。



何の力も持っていなくても、人の打ち明け話を聞いて一緒に泣いてあげることはできるし、その場を盛り上げて一緒に楽しむことはできる。「感情の共有」は、他人と繋がるための強力な武器である(それがたとえ見せかけであっても)。
それが得意な人、積極的にそうしている人は、何か具体的な力(金銭やコネなど)を持っていなくても、いつの間か人の輪の中心にいることが多い。
「他人との感情の共有」を避け、いつも一歩下がって外側から人を冷めた目で見ているような人間は、いざ自分が苦しいときにも甘えが許されない。「お前の感情を共有してやる義理もない」と、周囲は判断するからである。



わたしの妹は、食事を作って出してあげたとき、何か物をあげたときなど、ただ「ありがとう」と言うだけではなく、「これすっごいおいしいねえ。あー、お腹空いてたから幸せ」、「これマジ面白い。マジウケル。これはいいわ」などと、かなり大げさに感謝したり、大爆笑して喜んでいたりする。姉や母という我々家族に対してすらそうなのだ。
わたしはひねくれているので、「あいかわらずテンション高いなー。疲れないのかなあ」と皮肉っぽく観察していたりするのだが、それでもそこまで喜ばれれば悪い気はしない。またおいしいものを作って食べさせてやろう、という気持ちにもなる。
わたしのように性格が悪くない人なら、こういう嬉しそうな態度に自分まで嬉しくなって、もっともっと何かしてあげたいという気持ちになるだろうことは、容易に想像がつく。


ただ、こういう人は喜怒哀楽を表に出し過ぎるので、機嫌の悪いときはとんでもないやつあたりをされたり、テンションが違うために長時間一緒にいると疲れる、という欠点がある。
嬉しい!楽しい!大好き!を表現することにためらわない人は、怒りや不機嫌さを表に出すことにも、まったくためらわないからだ。


ところがかれらは、他人にやつあたりしても何故かなあなあで許される。その現象だけを見ていれば、確かに、「素晴らしい人の甘えは綺麗な甘え」と僻む気持ちにもなってしまうのだが、実際には、「これをしてもらって嬉しい」とか、「あなたが大好き」とかいうポジティブな感情も日頃から出し惜しみせず他人に与えているので、「感情表現の豊かな人」というキャラが確立していることがわかる。
日頃から楽しそうにしているからこそ、たまに不機嫌になっても、「あー、いつものことだ。どうせ明日になればケロッとしてはしゃいでるよ」と、大目に見てもらえるわけである。



これが、ポジティブな感情は全然表現しないのに、ネガティブな気持ちだけ表に出すような人だったらどうなるかというと。「いつも不機嫌そうな人」、「常に怒りと憎悪のオーラをまき散らしている人」ということになる。
本人的には機嫌の良いときも、誰かに大好きと言いたいときももちろんあるわけだが、その気持ちを全然表に出さないので、結局のところ他人には伝わっていない。たいていいつも仏頂面である。あるいは、そう見える。
こういう人の周りには当然、人は集まってこない。いつも不満そうな顔をしているだけで、楽しい気持ちにさせてくれることが皆無な人間なんて、誰だって近づきたくないに決まっているからだ。
かくしてこういう人は、感情を受け止めて甘えさせてくれる友人にも恵まれず、さらに世の中への怒りや恨みを増幅させるネガティブスパイラルにハマっていくわけである。


「甘えている」というのは、正確には「自ら助けを請わずに、受動的に他人の好意を期待している」状態をいいます。人の手を借りること自体が甘えではありません。


引用先のコメント欄を読んでいて、こんなコピペを思い出した。


大抵、表面的にはいい人を気取っている割に、
実は、面倒なことやリスクから逃げて、自分が必死になりたくないだけで、
自分の限界や実力が露呈することを恐れて、自分を取り繕うことだけを考えている。
自分から女に話しかけたり誘いをかけるわけでもなく、待っているだけの態度で、
同性にすら、自分が仏頂面をしていても優しく扱われることを一人で期待していて、
グループ行動ができず、かといって一人でも、一匹狼ではなく群れからはぐれた羊。
自分から企画をしたり、決断をするわけでもなく、すべて人に任せるだけで、
問題が起きれば、自分は関係ない顔をして逃げたり、迷惑そうないやな顔をするだけで、
当然ながら仲間からの信頼がゼロに近く、そういう評判にも敏感な女からは敬遠される。


わたしは博愛主義者でも何でもない。だから、自分が好意を持っている相手、自分が世話になった相手に限定して何かを返してあげたいと思うし、相手が苦しいときは自分にできることをしてあげたい、と思う。マザーテレサ以外は人間みんなこんなものだろう。
自分がこうだから、当然、わたしに対して何の好意も持っていない人に対して助力を期待してはいないし、そんな人に甘えても、「甘えるな」と突き放されるのは当然だと思っている。
それを冷たいとはまったく思わない。自分も無関心あるいは嫌いな相手に対しては、どうしてもそうなってしまうからだ。



わたしが不思議なのは、自分が誰かを助けることを想定したこともなく、他人の感情や事情には無関心な姿勢を貫いているくせに、他人が自分に関心を持ってくれないだろうか、と遠くから勝手に期待して、その期待が裏切られるとまた、「人間ってなんて冷たいんだ」と勝手に疎外感を覚えて恨みをつのらせているネガティブスパイラルな人々の存在である。
冷たいのは自分も同様であって、他人が特別冷たいわけでもなんでもない。どうしていつまでもそれが理解できないのかさっぱりわからない。


さらに不可解なことに、こういう人は、人の悩みを聞いて優しい言葉をかける人たちのことを、「偽善者だ」と糾弾する。
「共感するふりなんか誰にでもできる。俺は(私は)正直で純粋だから、そんな狡猾なやりかたで他人の気を惹きたくないだけだ」と叫ぶ。見せかけの優しさに騙されて恋愛したり友情を育んだりする奴らはバカだ、とさえ見下すのだ。
要するに、人に優しくできない俺は自分に正直で不器用なだけだから、それを理解しろ、理解して、「純粋な俺様」を好きになれ、というわけである。


ところがそう主張する本人は、といえば。「今まで辛かったんだね」と、涙目で優しいことを言ってくれるような異性や友人を、人一倍求めているのだ。
かれらの論理でいけば、「甘えるな。私はあんたのママじゃない」と突き放す人こそ、その場しのぎの優しい言葉でごまかしたりしない、「真に正直な人」ということになるはずなのだが、なぜかそういう人間はお気に召さないようなのである。
自分が他人に苦悩を打ち明けるときは、優しい共感といたわりの言葉を期待しつつ、自分が他人に苦しみを訴えられたときは、「俺は偽善者じゃないから優しい言葉なんて吐けない。そんなことを異性の前でする奴は、ただヤリたいだけだ。そんな言葉に騙される奴は愚かだ」と、勝手に決めつけて断罪し、優しさをうまく表現できない自分のコミュ能力のなさを正当化する。
こういう人たちが本当に本当に不思議でしょうがない。


そんな性格になってしまった経緯については、各々の事情があるのは当然であり、わたし自身も、ここまでひねくれるにあたっては幼少期からの体験の蓄積があるわけだが、どんな個人的事情があろうが赤の他人様にはまったくの「無関係」なので、「事情を考慮して優しくして欲しい」と期待するのも、当然ながらお門違いの甘えである。
「関係がある」状態にしたいのなら、自分で濃密な人間関係を構築するしか方法がないのだ。



わたしの場合、あんまり大勢の人とそういう濃密な関係性を維持すると疲れ切ってしまうことはわかっているので、友人は少なくていいと思っている。
大学時代はわたしの人生においてもっとも人間関係が広がった時期で、経験も積んだので後悔はしていないけれど、それだけに心理的疲労もひどく、得るものも多ければ失うものも大きかった。さんざん泣いたし、怒ったし、自分のことだけではなく人のことで、喜んだり悲しんだりすることがたびたびだった。
ああいうのは若いうちだったからできたことで、精神的ヒキ状態に近い現在は到底無理だと思っている。


ネガティブスパイラルにハマる自覚のある人は、自分が他人にどのくらいのリソースを割けるのか、一度じっくり考えてみればいいんじゃないかと思う。深夜の悩み相談も引っ越しのボランティアも、貴重な週末を毎週他人との「感情の共有」のために使うこともまっぴらだと思っているならば、「自分の苦悩を他人に共有してもらう」ことも期待しない方がいい。
自分はそういう物理的・心理的リソースを人のために割けないのだから、他人に期待するのも間違っている、と割り切れば、「自分だけが冷たくされている」疎外感に苦しむこともなくなる。人の事情に興味が持てないのは自分も同じと思って、一生一人で生きていく覚悟を決めましょう。


自由と孤独は紙一重です。



 blogランキング参加中

投稿者 : ナツ at 2008/03/03 | カテゴリー : 心理
コメント

投稿者 : えむけーつー at 2008年3月 3日 07:35

リソース説には心の底から納得です。
俺はどっちかってーと孤独な人で、孤独であることはたまにきついんですが、自分の時間をだれかのために使うっていうことに圧倒的な嫌悪感を覚えるので、それでいいです。
リンク先の方のテキストはけっこう好きで、アンテナにも登録してるんですけど、この手の意見に関して予想される反応としては「孤独を選択できる人間はすばらしい。選択の余地なく孤独な人間もいる」系だと思うわけです。
非モテ関連の議論のときもそうでしたけど、これ結局「自分は運命的にそのようである」という一点を突破しない限り、本当にどうしようもなくて、そこの断絶はもう、どうにもなんねーのかな、とも思います。乗り越えるったって、必然性がないと人間そうそう乗り越えるもんでもないですし。
出られないから仕方なくそこにいるのではなく、出る気がないから好きでそこにいる、というのが、とりあえず社会で生きるうえでは正確な表現だと思うんですが、かといって「外に出たならすばらしいことが待ってる!」と断言できるほど能天気にもなれません。
かつての浮かれてた俺は、リンク先の方のいう「素晴らしい人」を地で行くような、まさに能天気な言動をネットでも、リアルでもやらかしてしまったわけなんです。当時のとある友人が「俺はこれでいいんだ。だれにも期待しない。迷惑もかけない」と言っていたのに対して「それじゃいけない」とかゆってたんですよ俺は! 何様か!
で、見かねたうちの奥様が、俺に対して言ったセリフ。

「あんたはたまたま、バカみたいにしぶとくて生命力があったから、一人で外に出てきてもなんとかなっただろうけど、外に出てきてまわりを見たら、やっぱりだれにも受け入れられないってこともあるんだよ。あんたのそれは、傲慢だよ。わかってたって、どうにもならないことってあるんだよ」

あ、読み返してみたら、ぱっと見、ナツさんの意見への批判っぽく見えることに気づいた。えーと、そういうことじゃなくて。リンク先の方のいうことを肯定しているわけでもないです。この場合「わかってない」からいろいろ変なことになってる、というのがナツさんの主旨なわけで。
あ、やばい。このコメントには結論がない! かつての俺のバカさ加減を暴露してそれで終わってる!
いやまあ、だから、ため息みたいなもんですね。仕方ないからここにいる、から、好きでここにいる、までの距離はそんなに遠くないんですが、あいだにでっかい壁があるからなあ。迂回してでもそこ越えちゃうと、ずっしりとした自己嫌悪さえどうにかすれば、あとは楽になるんだけどなあ……。しかしその自己嫌悪ってやつがまた、なんとも味わい深く……ああ……。
のっけからまとまりのない長文にて失礼しましたー。


投稿者 : 松 at 2008年3月 3日 20:36

自分に当てはまりすぎて耳が痛いですね(笑)。
確かに、他人に無関心を装っている人には、人は集まってこない。
自分もたくさんの他人と交流を持って感情を共有することは苦手で、よくそういう態度をとっちゃいます
そういう態度を何度か繰り返してしまって何度も痛い目を見ているわけですが(笑)。
現在の自分の身の振り方について考えさせられました


投稿者 : ナツ at 2008年3月 4日 00:30

●MK2さん
>わかってたって、どうにもならないことってあるんだよ
わたしにも「出られないワク」というのは確実にあって、どうがんばっても妹と同じふるまいは一生できないわけですが、突きつめればそれは「できないんじゃなくて、しない」、もっと言えば「妹と同じ行動をしたいと*思うこと*ができない」というところに帰結すると思います。身近に良いサンプルがあるからと言って、妹を真似て全く同じ行動を取ったとしても、彼女のように楽しくも嬉しくもないし自然にふるまうことはできない。いやいや人を手助けしても、助けられた方が迷惑です。
リソースを割くことが苦にならない相手というのは、わたしの場合本当に限られている。そこをどうにかしろといわれても確かにどうにもならない。そんな精神的努力までは強制されたくないなあとも思う。

その努力を放棄するかわり、わたしは妹に比べてずっと理解者が少ないことを甘んじて受け入れながら生きようと思う。誰にも責任転嫁しない。「私はこれだけリソースを割いて*やってる*のに、それを理解しない周囲が悪い」という怨念を抱えてる人は、もうその時点で、他人のためにリソースを割くことに向いてないのだから、孤独に生きるための覚悟を据えた方がいいと思います。


●松さん
わたしは妹や友人などポジの人が身近にいるので、自分とかれらのどうしようもない違いについては、昔からことあるごとに考えざるを得なかったんですよね。
友人の引っ越しの手伝いについて妹曰く。「肉体労働のあとでみんなで焼き肉とビールで乾杯したけど、あのうまさはマジ異常。あー、この一杯のために生きてる!とか思うもんね」
・・・てなわけで、仲間と集まってどんちゃん騒ぎをするついでのボランティア労働など、こういう人にとっては部活や同好会みたいなもんで、苦でも何でもないんですね。休日が潰れたという感覚自体持っていない。だから助けられる側も心理的負担がない。立場が逆の場合にも喜んで助けてもらえるという甘え甘えられの関係。
「リソースを割く」という言葉からして、我々「ネガティブ側」のいやいやながらの気持ちの表れでしかない。かれらにはそういう概念そのものがないんです。

ほんと得な性格ですが、そういう関係性を構築してきたのはまぎれもなく本人の力。だから「甘え上手」がうらやましいと思うのは有りだとしても、「お前ばかりがなぜ甘えを許される」というやっかみ全開の言説に対しては、甘えだなーとしか思えなかったり。


投稿者 : aho at 2008年3月 4日 07:24

なんか見覚えあるなぁと思ったら、自分の書いたコメントだった。もう1年も前か。人生一生勉強。人を使う立場になって、自分のことを考えることが少なくなった。私はうまくやっているのかなぁ。


投稿者 : ナツ at 2008年3月 5日 00:16

●ahoさん
>「甘えている」というのは、正確には「自ら助けを請わずに、受動的に他人の好意を期待している」
>状態をいいます。人の手を借りること自体が甘えではありません。

これ書いた方ですか? 短いコメントで真理を突いてるなー、と思ったので引用させていただきました。リアル生活が忙しいと、自分の内部を掘り下げてアイデンティティごっこしてる時間が格段になくなりますね。目の前に出て来る課題を次々消化していくことで手一杯だし。


投稿者 : ハナスケ。 at 2008年3月 5日 00:45

お久しぶりですー。
今回のエントリを読んで、頭にサクッと棘が刺さったような気持ちになりました。
何せ、先週までの私に思いっきり当てはまりますもん、これ。

最近、我が家のメンヘラ人口が一人増えたのとあれやこれやの難題で
心身疲れ切っていて、半年周期でやってくるプチ鬱状態に陥っていたもので。。。
短期間で復活することがわかっているし、平常運転の私はかなり平和な人間なので
そんなに心配ないんですが、復活したら復活したで今までの自分の甘えた行いに赤面して
布団の上でゴロンゴロンして呻き声を上げる儀式が待っているので、キッツイデスヨー。
「店長ごめんなさい、私は今大変なんだからレジの誤差が五千円出たくらいでカリカリすんな!とか
こっそり本気で思ってごめんなさい!!違算報告書出す時の態度がほんっとに悪くてごめんなさい!!
っつーか、家の事情を知れば皆同情する筈(でも言わないのが優しさ☆)とか普通に驕っててごめんなさい!!!」てな感じで。

いや、もう本当に改めて身に沁みました。反省に次ぐ反省です。
でも、自分の心理状態を文章化してもらうと、スッキリ爽快ですね。
ありがとうございます。

ちなみに、私のリソースも低めです。
考えることが趣味なので、どーしても自分に割く時間が多すぎる!のですが、考えることは私にとって
呼吸するみたいな行動なので、どうしてもやめられず。
そのくせアウトプットは苦手なんですよね。自分の考えを人に知ってもらうことに、あまり興味がない。
自分が知ってればいいか〜と満足してしまうし、誤解されてもそれをとくことにすら興味が乏しいので
ここまでくると大勢と深く付き合ってわいわいするのは無理だよね、とすっぱり諦めている感じです。
(でも人の話を聞くのは大好きなので、「不特定多数」との「浅い」付き合いはかなり広い)

でも、気が落ち込んだときだけは困ったチャンになってしまうあたり
私の俗物さが浮き彫りになる今日この頃ですが・・・


投稿者 : 簾 at 2008年3月 5日 04:01

ナツさんのブログに積極的にコメントしている方は「他人に頼り頼られ」タイプではなく、ナツさんと似たタイプの人の方が多いような気がします…というのは単なる印象なので読み流してください。

>冷たいのは自分も同様であって、他人が特別冷たいわけでもなんでもない。どうしていつまでもそれが理解できないのかさっぱりわからない。

本気で「世間が冷たいよぅ」と思っている人のことは理解できませんが、他人を「甘えるな」と糾弾したくなる人の気持ちはよくわかります。
引用元のブログ主の方が後日書かれたエントリを2、3個読みましたが、『甘えた経験の無い人ほど「甘えるな」と言われる』し『甘えるなと言われ続けて育つと、自分が同じ事をしたら即座に「甘えるな」と言われそうな事を他人がするのを受け入れられなくなるので、他人を甘えさせるのも下手になる』と仰っていますね。
私も、自分の甘えが許せないんだけれども本当は助けてほしくて仕方がなく、黙って指を咥えながら、容易に手助けを得られる人間を横目で見て羨んでいるタイプなので、すぐ他人に対して「甘ったれたこと言いやがって」って思ってしまいます。さすがに口に出すほど厚顔無恥ではなく、また前述の言葉の裏側に隠れていた本当の意味を今は理解しているので、誰にでも「甘えるなー!」と噛み付きはしないのですが。
端的に言うと、自分の受けた苦しみをできるだけ多く他人にも味わわせて一緒に仲良く不幸になりたいだけ、だと思います。自分は昔から「ひとりで解決すること」を強いられてきたのに、自分が許されなかったことを他人が易々とやってのけるのはずるい!羨ましい!…んだけれども、そう考えてしまうことも甘えなので、はっきり言えない。みっともないし。
こういう僻み根性に凝り固まった人間が、本当の意味で甘えている状態の人間に対し、適切なタイミングで尻を叩いて叱咤激励してやるなんてことはありえない(なぜならそれも人助けであって労力が必要だから)ので、間違った「甘えるな」攻撃を連発してしまうんですね。

何か私、前も似たような発言をした気がしてきました。私の原動力の殆どが、自分の体験以上の不幸を他人に味わってほしいという気持ちなんでしょうか。そういえば、映画「バットマン」で、「俺がどんなに苦しんだかお前にわかるか」って言ったジョーカーに向かってバットマンが「もっと苦しめ」と言い放つところ大好きなんですよ、って話が飛びすぎました、すみません。

仕事の場合なんかは特にそうですが、解決できもしないくせにひとりでグジグジやってることも、結局は甘えなんですよね。グジグジの最中は、傍目で見るより精神的にきついので、本人は大変な苦労を負ってるつもりなんですが、はっきり言うと時間の無駄であることも多い。目の前の課題を片付けることこそが重要で、片付けるために努力しましたってのが目的になっちゃいけないですよね。恥だろうが格好悪かろうが、土下座してでも他人に助けてもらわなければならない時は必ずやってくるはずで、そこで変に格好をつけ、かえって事態を悪化させてしまうのが「甘えるな」と他人に唾を飛ばして言う輩なんだよなぁ、と思いました。輩ってのは私のことなんですが。

あ、こんな時間に書き込んでますが、ちゃんとお仕事してます。


投稿者 : げぇ at 2008年3月 5日 06:39

>他人を頼って学びながら徐々に成長する人の方がウケが良い。甘えてるのに。
>恩師に助けられたり、きっかけを与えてくれる人が現れて乗り越える話はみんな大好き。

だれにとってウケがいいのかな?
みんなってだれなのかな?

なんだか具体的な個人じゃない、もっと曖昧な誰かの視線を意識しすぎているように感じます。まず、するべきことは自分の身につけた自己解決能力をしっかりと誇りに思うことじゃないかな。(誰でもない)他人のどう思われるのかが先になってしまって本末転倒のような気がします。

もちろん、おれも自分のしたことで他人が喜んでくれたり楽しんでくれたらすごく幸せだけど、それはやっぱり目の前にいる誰かのためなんですよね。なんとなく、この「誰でもない誰か」にたいする意識が非モテ問題の根底にあるような気がします。



投稿者 : ナツ at 2008年3月 6日 00:20

●ハナスケさん
>家の事情を知れば皆同情する筈(でも言わないのが優しさ☆)とか普通に驕っててごめんなさい!!!
あるある(笑)自分が苦しくて周りが見えない時ってこうなりますよ。「わたしはこんなに苦しんでるのに・・・それを口に出して頼らないだけお前らより強いんだぞ・・・つーか察しろ!」みたいな。家の事情も自分のことだし、言わないのも自分で決めたことなのに、何もかも他人のせいみたいな気がしてくる。こうなったら少し休んでみるとか視点を変えて頭をリフレッシュさせることが必要なんですね。

>アウトプットは苦手なんですよね。自分の考えを人に知ってもらうことに、あまり興味がない。
リアルではわたしもそうかな。親しい人にしか突っ込んだ話はしないし。その反動もあってネットでは不特定多数に向けてアウトプットしまくってるわけですが。
そういうのって誤解されやすいんですよね。「あんたは私にしてるような話を、もっと他の人にもした方がいい」と親しい友人にアドバイスされたこともあるけど、これがなかなか難しい。

●簾さん
>自分は昔から「ひとりで解決すること」を強いられてきたのに、
>自分が許されなかったことを他人が易々とやってのけるのはずるい!羨ましい!
MK2さんも同じようなこと書いていたなー。わたしにもこの傾向は多分にあるから読んでて痛かった。ただわたしの場合は、「易々と甘えている・甘えが許されている」人に対してではなく、「自分の甘えだけ許されないのはどうしてなんだぜ!?差別だぜ!」とひがんでいる人に対して「甘えるな」と言いたくなるところが違うか。
甘えが許されている人に対する「うらやましい」ではなくて、僻みや怨念を無自覚にダダ漏れにして、自己嫌悪を感じないでいられる心性が「うらやましい」。振り返ってみれば、わたしが批判してる記事(発言)の半分くらいはこれですね。これも防衛機制なんだろうなあと自分でも思う。

>自分の受けた苦しみをできるだけ多く他人にも味わわせて一緒に仲良く不幸になりたいだけ
わたしはこのへんは少し違うなあ。前にも書いたけど、わたし高所恐怖症なんですよ。高いところから下を見ると、怖いから早く低いところに降りたくなる。そのパニックが極まれば飛び降りてしまうかもしれない。飛び降りたくなる自分が怖い。そういう心理です。
「赤の他人に期待していつまでも指をくわえてる人」を見てると、この恐怖と似たものを感じます。自分で動かずいくら期待していても、欲しいものは得られないことを知らない人の世界観。それを見ているのがジェットコースターで上に上がっていくときのように怖ろしいので、早く「低いところに着地させたい(現実を知れ)」と思ってしまう。完全に自己投影。不安定な状態の人を見ると自分も精神が不安定になるんですね。

その心理の中に、早く現実を知ってショック受けてしまえ、という嗜虐感があるのは否定できない事実ですが。その衝撃をやり過ごして、自分の足で歩くことを覚えれば、苦しみは短くて済む。出られないと思い込んでもがいていたときの方がどう考えても不幸だったから。これだけ不幸な自分を他人は救う義務があるはずなのに、なぜ期待通りに動いてくれないのか!という疑問と怨嗟の迷宮でぐるぐるしてるのは発狂しそうな苦痛ですよ。

でもまあ、甘えが許されず育った人は他人を甘えさせるのも下手になるというのは真理ですね。うまいこと甘えさせつつ精神的自立を促してやれる人だって、世の中には存在するのだから。わたしには無理だ。

>目の前の課題を片付けることこそが重要で、片付けるために努力しましたってのが目的になっちゃいけないですよね。
まったくその通りだなーと思いました。「変に格好をつけ、かえって事態を悪化」ってのも身に覚えがありすぎて痛いです。簾さんブログ持ってないんですか?


投稿者 : ナツ at 2008年3月 6日 00:27

●げぇさん
>まず、するべきことは自分の身につけた自己解決能力をしっかりと誇りに思うこと
それができれば少しは自信もつくと思うんですけどね。ただ、身を切られるような孤独に耐えかねている人は、他人に甘えることで他人と繋がりたいという欲求を持ってるので、自己解決能力を誇るどころじゃないのでしょう。むしろその能力は「誰も自分を救ってくれなかった」今までの人生の証であって、呪わしいものにも思えるかもしれない。
誇れば誇ったで、「甘え上手な人」を貶める言説と常にセットになってしまうので、人の反感を買うだけといういつものネガティブスパイラル。

>おれも自分のしたことで他人が喜んでくれたり楽しんでくれたらすごく幸せだけど、
>それはやっぱり目の前にいる誰かのためなんですよね。
>なんとなく、この「誰でもない誰か」にたいする意識が非モテ問題の根底にあるような気がします。
そうなんですよね・・・。わたしもリソースリソース言ってるけど、それは「人に共感を要求するばかりで、人の気持ちを考える気がない人」にはギブ&テイクで話すのが一番わかりやすいだろう、と思ってるだけで、自分の好きな人が本当に助けを求めているとき、普通はリソースの事なんて考えない。気がついたら体が動いている。見返りのことを考えてる余裕も当然ない。
「あなたが苦しんでいるのを見るのが嫌だから」「喜ぶ顔が見たいから」という自分の都合なんですよね。相手のためと言うよりは。そういうことをしてあげたいと思える相手が誰一人いないとすれば、それが根本的な問題ではある。
だけど、自分を深く憎悪している人間には他人を好きになる余裕がないこともわかっているので、とりあえず自分以外の人間の感情について考えること、あるいは、人の気持ちや個人的事情に興味が全く持てない自分を自覚することから始めた方がいいと思ってます。


投稿者 : 簾 at 2008年3月12日 03:28

毎回、長々とコメントしてしまってすみません。残念ながらブログは持っていないです。面白そうだな、と思ったことはあるんですが、基本的には毎日ぼけーっと過ごしていて、自発的に物事を考えない人間なので、他人の意見にトラバしまくって、人のふんどしで相撲取りまくり、タンスの中は借り衣装ばっか、みたいなことになってしまいそうで、二の足を踏んでいます。

>早く「低いところに着地させたい(現実を知れ)」と思ってしまう。
あ、なるほど。崖の際に立ってフラフラしている人を見て、心臓が縮み上がるような感じでしょうか。怨念ダダ漏れである当人からしてみると、誰かと手を取り合って複数人でせーの、と飛び降りていく他の人たちを見て、『「自分も一緒に飛んでくれる人が欲しい」と言っているだけなのに、ナツさんが後ろから蹴り落とそうとする』という気持ちなのかもしれません(笑)。

>自分で動かずいくら期待していても、欲しいものは得られないことを知らない人の世界観。

無口でクールでマイペース、なのに周りには自然と人が集まって…という、漫画のような状況を享受したいんでしょうね。という、意地の悪い見方はさて置き、やっぱりこれも自己承認の話に繋がってくるのかなぁ、と思いました。何でもここに繋げて考えてちゃいけないんですが、どうも「甘えてもいいじゃない」と主張する目的というのが「自分が誰からの手助けも得られないような愛されない人間だというのか。甘えるなってことは、それを認めろってことだろう。酷い!」って実は言いたい、ぐらいしか思い付かないです。他にもあるのかなぁ。まぁ、競馬で一発当たらないかなぁ、みたいなノリで単に楽したいというタイプの人も中にはいるのかもしれませんが。
彼ら彼女らは自分の今の状態を、ゼロどころかマイナスと捉えているんですよね。自ら動くということは、更にマイナスに傾くことを意味しますが、自分の施しに対してプラスのポイントを割り振ってくれる人が現れるとは限らないし、そんなリスクは冒せない。マイナスになったらなった分だけ、自分が惨めだから。今まで散々惨めな思いをしてきたっていうのに、まだ嫌な思いをしろと諭されるされるなんて心外。私の気持ちがわからないってことは、あんたスタート地点がプラスだったのよ。自覚してないだけで最初に誰かに助けてもらった経験がまずあってそこスタート地点だったのよ。あたしは生まれたときからゴールがずっと向こう側にあってそれでそれで…。
何か途中から、十代の頃の私がしゃしゃって来ました。
こういう人は、ゼロからスタートすることも無理で、誰かがプラスにしてやらないと世界は変わらないんでしょうね。次のエントリでナツさんが「だったら気持ちのわかる人同士で、ポイントを割り振りあってみんなでハッピーになればいいのに、そういう例はないの?」とおっしゃってますが、本当にそうですよねぇ。彼ら、なぜかマイナスポイントの人からはポイント欲しがらないんですよ。「あそこにあんなにホラ余ってるポイントがこっちに回って来ない」って必ず言う。

すみません、また長くなりました。


投稿者 : ナツ at 2008年3月13日 00:23

●簾さん
ブログないんですか。文章書き慣れてるし鋭い方なので、どこかのブロガーかな?と思っちゃいました。残念。

>「自分が誰からの手助けも得られないような愛されない人間だというのか。甘えるなってことは、それを認めろってことだろう。酷い!」
・・・という逆ギレをされるケースが多いです確かに(笑) わたしとしては、「当人の資質に合わない関係性を求めても維持できない」と言いたいだけなんですが。常に手助けをされ、自分が救われる側という関係が続けば『この人は見返りに何を要求するつもりだろう』とか『自分は見下されている』という劣等感で身動き取れなくなると思います。「無償の愛情」以外には承認欲求を満たされないような人は、本当に無償の愛情が手に入ったところで、それが無償とはどうしても信じられない。つまり自分の側も相手に与えなければ「楽」になれないわけですが、相手が何を求めているのか理解できなかったり、逆に搾取される疑心暗鬼に怯えたりして、ボロボロに消耗するだけだと思うんですよね。
そうやって、無償の友情・関心を向けてくれた人を、自分から知らず知らず拒絶していることが、何度もあったんじゃないかと推測してるんですが。

まとめると、
「孤独に生きる覚悟があるなら『性格が悪い』という評価は正しくない。それは単に孤独に向いた性質・個性であるにすぎない。他人と濃密な関係性を築き、助け助けられ、共感し共感される友や恋人が欲しい、と志向したとき、『孤独に向いた性質』は『性格が悪い』と判断される。自分の性質に見合わない関係性を要求し、しかも自分は変化せず、ありのままの自分でいたいと思うならそれは『傲慢』である」
ってことになるんでしょうかね。



コメントする


トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL: