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2008年3月 7日

猫も連れて行こう、好きにやればいい

先日のエントリにこんなブクマコメントをもらいました。

自分は『深夜の悩み相談も引っ越しのボランティアも、貴重な週末を毎週他人との「感情の共有」のために使うこともまっぴらだと思っている』ような人こそ擁護したい。「性根が曲がった人は誰も省みない」とは言わせない。ここに省みる人間が一人、確実に存在する。
(※意味がわかりにくいので引用部を少し追加してます)



「なぜ俺は嫌われるんだ?」
「なぜ俺は友達(恋人)ができないんだ?」
「なぜ俺は愛してもらえないんだ?」
「なせ俺の甘えだけは許されないんだ?」


という命題のエントリや発言について、「○○が原因だと思う」と言及すると、なぜかこの手のコメントがつくことが多いわけですが。


以前にも、「ネガティブだからって嫌われるとは限らない。俺はそういう正直な人の方が好きだ。うわべを取り繕って本心を明かさない人より、ネガな気持ちをそのまま表現する人の方が信用できる。なぜそういう人間が嫌われるなんて言うんだ!」と噛み付かれた覚えがある。
そんなこと言われても、「なぜ俺は嫌われるんだ?」という苦悩に対して自分の見解を述べているだけなので困ってしまう。厳密に言えば原因なんて特定できないし、愛される理由も愛されない理由も数式のように答えが決まっているわけがないのだが、一般的に、「好かれやすい/人気のある/友達の多い」タイプ、またその逆というのは存在するわけだ。それすら認められないというのは何だかなあ。



ネガティブな人を好きならそれはそれで結構だと思うし、そういう人同士で理解し合うことを否定はしていない。誰かのために行動することも共感することも面倒だと考えている、そのくせ自分は指をくわえて同情・共感を期待しているような人の要求を満たすのは至難の業だと思うが、それが可能だと考えているなら止める理由はないわけだし。
ただ、そういう人を「無条件で顧みる人」が決して多くないからこそ、彼らは孤独で、その孤独に耐えきれずにネットで憤懣をまき散らしている事実は事実である。(*1)



そして、遠い場所からの「擁護表明」は、「そういう人には自分も直接関わりたくないけれど、擁護するフリをして自分の内心の甘えを肯定したい」という願望にしか見えない。誰かも言っていたが、それは自己憐憫だと思う。
自分で直接ネガティブな主張をすると叩かれるのでやらないが、ネガティブな主張をしている人を探してきては自己投影し、「可哀相な人だから」と擁護することによって、自分の心の闇を他人に受け容れてもらおうとする心理の動き。このページでは「他人を利用した自己愛」と説明されている。

なぜこんなことをするのかというと、たとえば自己愛を映し出す場合で言えば、自我が貧弱なために自分で自分を愛することができないからなのです。自分に向き合おうとすると、どうしても見たくもない都合の悪い感情と向き合わざるを得なくなりますので、そういう不愉快な事態を避けるために、他人という鏡に自分を映し出して、そこに自己愛を注ぐのです。 つまり、極端な言い方をすれば、他人の人格や個性などはどうでも良くて、あくまでも自分の延長としての存在としてしか他人を理解しないのです。


 これはたとえば弱者の救済という形で表現されることもあります。救いを求めている自分自身を、他人という鏡に映し出すのです。そして、そこに映し出された哀れな自分を、必死になって救おうとするのです。表面的には弱者を救済しようとしているように見えるのですが、本当に救おうとしているのは他でもない自分自身なのです。

しかし、実際に自分で自分を救おうとすると、「見捨てられた自分」という、苦痛に満ちた心理的現実と向き合わなければならなくなるのです。ですので、このような苦痛を避けるために、他人という鏡に自分を映し出して、そこに映った自分を救おうとするのです。そのために、利用できそうな都合のいい弱者を探し出すのです。そして、自分自身の悲惨な状況を省みることなく、他人を救済することだけに情熱を傾けるのです。

第三者の覚めた視点から眺めてみますと、「他人のことはいいから、自分自身のことをなんとかしたら?」と言いたくなるような状況が生まれるのです。


とりあえず、「省みる人間が一人、確実に存在する。」とまでいうのなら、積極的にそういう人とお友達になってあげればいいと思うんですよ。ネットには孤独を抱えて発狂寸前になっている、「ありのままの俺(私)を愛してくれ」的非コミュ・非モテ系ブログが、ごまんと存在するのだから。
彼らと個人的に親しくなり、甘えさせてやり、物理的・心理的リソースを割いてあげればいい。それをやってこそ、「性根が曲がった人は誰も省みない」という言説に打ち克てるんじゃないのだろうか。
以前、それをやろうとして失敗した人はいるけど、それは上記引用の通り、弱者(?)を利用して自分を憐れんでいるだけだったから失敗したのではないかと個人的に思っている。本気でネガティブな人と友達になってあげたい、誰も顧みなくても俺だけは性根の曲がった人に手を差し伸べるぜ!と思っているなら、四の五の言わずに実行に移して信念を証明すればいいんです。



「ネガな人は嫌いだ。親しくなれない」と言っている人に対して、いくら理屈で「ネガな人」を擁護しても、その人が好かれる日など来ない。たとえばディベートで、「ネガティブな人は自分に正直でステキな人だから男女問わず好かれる」という論陣を張り、「ネガティブは嫌われる」派を論破したとする。しかしそんなことをしても現実に好かれるわけでもないし、友達や恋人がその日のうちにできるわけもない。理論は現実を超えられない。
愛を他人に強要することはできない。だから自分が愛してあげればいい。それだけの話だと思うのですが。



● ついでに、こちらのコメント欄で書いたやりとりも重要だと思うので引用しておきます。

げぇさんwrote:
他人を頼って学びながら徐々に成長する人の方がウケが良い。甘えてるのに。
恩師に助けられたり、きっかけを与えてくれる人が現れて乗り越える話はみんな大好き。甘えてるのに。


だれにとってウケがいいのかな?
みんなってだれなのかな?


なんだか具体的な個人じゃない、もっと曖昧な誰かの視線を意識しすぎているように感じます。まず、するべきことは自分の身につけた自己解決能力をしっかりと誇りに思うことじゃないかな。(誰でもない)他人のどう思われるのかが先になってしまって本末転倒のような気がします。


それができれば、少しは自信もつくと思うんですけどね。ただ、身を切られるような孤独に耐えかねている人は、他人に甘えることで他人と繋がりたいという欲求を持ってるので、自己解決能力を誇るどころじゃないのでしょう。むしろその能力は、「誰も自分を救ってくれなかった」今までの人生の証であって、呪わしいものにも思えるかもしれない。
誇れば誇ったで、「甘え上手な人」を貶める言説と常にセットになってしまうので、人の反感を買うだけといういつものネガティブスパイラル。

もちろん、おれも自分のしたことで他人が喜んでくれたり楽しんでくれたらすごく幸せだけど、それはやっぱり目の前にいる誰かのためなんですよね。なんとなく、この「誰でもない誰か」にたいする意識が非モテ問題の根底にあるような気がします。


わたしもリソースリソース言ってるけど、それは「人に共感を要求するばかりで、人の気持ちを考える気がない人」にはギブ&テイクで話すのが一番わかりやすいだろう、と思ってるだけで、自分の好きな人が本当に助けを求めているとき、普通はリソースの事なんて考えない。気がついたら体が動いている。見返りのことを考えてる余裕も当然ない。
「あなたが苦しんでいるのを見るのが嫌だから」、「喜ぶ顔が見たいから」という自分の都合なんですよね。相手のためと言うよりは。そういうことをしてあげたいと思える相手が誰一人いないとすれば、それが本質的な問題ではある。


だけど、自分を深く憎悪している人間には他人を好きになる余裕がないこともわかっているので、とりあえず自分以外の人間の感情について考えること、あるいは、人の気持ちや個人的事情に興味が全く持てない自分を自覚することから始めた方がいいと思ってます。



● 上記のようなことを書くと、「俺だって人の気持ちを考えてる。それが相手にはリソースの消費として認識されないだけだ」という反発が即座に返ってくる気がするんだけど、相手が何を求めているのかわかっていないなら、相手の気持ちに鈍感だとしか言えないし、求めているモノとは違うモノを差し出したら突っぱねられることは当然あるわけだ。
また、「別にあなたには何も求めていない」という人に対して勝手にリソースを割いても、要らぬお節介と思われて終わることもある。
そんな経験ならわたしだって何度もしているし、そういう痛い目に遭ったことがない人の方が少ないだろう。相性が合わない相手にこだわり続けるのは不幸の元だ。



それらすべてを、「こちらの善意を受け容れない相手が悪い」、「自分だけが差別されている」という他罰論に帰結させてしまうこと自体が、「他人の気持ち・価値観・個人的事情を尊重していない」ということ。
他人には他人の意志や価値観や好悪の感情があるのだから、自分の好意が受け入れられないことをいつまでも恨んでいないで相性の合う人を探した方が早い。
また、誰が相手であろうが、「これだけしてやっているのになぜ見返りがないんだ?」という怨嗟の迷宮をぐるぐる回ってるだけの人は、誰かのためにリソースを割くような生き方は向いていないということだから、孤独に生きるための覚悟を据えた方が精神的安定を得られると思います。


あるいは、前述のように、いわゆる「性根が曲がった人」にリソースを割くことで、自分の理想とする関係性を構築すればいいんじゃないかと。自分がしてもらいたかったことを、自分より孤独で他人に心を開かない人に対してしてあげればいい。同じような境遇の人同士なら、相手が何を求めているか直感が働くだろうと思うから。



でもネットの言論による、安全圏からの「ネガ非コミュ擁護論」は飽きるほど見かけるのに、そういう私的な関係性が継続的にうまくいってる例って寡聞にして知らないんだよなあ。
「差別・疎外されている」と叫んでいる人同士で繋がっても、すぐに仲間割れが起きてまたばらばらになってしまう。うまくいってるのは「リア充(笑)」へのルサンチマンを分かち合っているときだけ。それ以上互いに近づくと関係は崩壊する。目をおおうばかりの不安定な関係性。
それがわかっているからこそ、遠くから理論上のみ擁護している人が多いのかもしれないけど。でもそれって、自ら「嫌われもの・友達ができない」ってことを証明しているようなものじゃないのでしょうか。机上の空論による正当化に成功しても、現実には誰も友達にならないこんな世の中じゃポイズン。
・・・まさにハリネズミのジレンマですね。



*1: ネガは嫌われる嫌われる書いてるけど、かくいうわたしもネガ側だ。だから友達が少ないわけで。



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投稿者 : ナツ at 2008/03/07 | カテゴリー : 心理
コメント

投稿者 : kiya2014 at 2008年3月 7日 09:38

「私的な関係性が継続的にうまくいってる例」をネット上などで
公表して第三者の知るところとするのは、
私的な事象を象徴界に委ねることであって、
それはもはや私的な事象とは言えないでしょう。

たとえば僕自身の私的な関係性はあなたが知るところではないし、
知る必要もないし、そもそも知りたくありませんよね。
語った途端に消費対象になってしまうのに、わざわざ語ろうとする人間は残酷なのです。
昔ナツさんのブログにもそういう、ものの価値の分からないアホがいたような気がしますが。


投稿者 : ナツ at 2008年3月 7日 23:44

●kiya2014さん
「私的な関係性をあえて公表する」ことはないにしても、自分だけ差別されてるとか疎外されているとか人間はみんな醜いとか、そういうことを書かなくなってポジティブに変化した、人を信頼するようになった例をまず見ないなあ、と思いまして。そうなる前に閲覧者や関係者とトラブルになって閉鎖・更新停止してしまう。ある程度の信頼関係を構築しているように見える相手と突然、手の平を返したようにいがみあったり。理論上の擁護者はあれだけ多いのにふしぎ。

とにかく、リアルどころかネットですらも、安定した人間関係が維持できないような気がする。そして、「俺はなぜ嫌われるんだ?→俺以外の人間が排他的で差別的だから」と同じところでずっとぐるぐる回っている。
最初から穏やかな非モテ・非コミュはともかく、怨念の強いネガティブタイプが劇的に変化した例ってありますか?(はしごたんは逆方向に不安定になっているだけだし)

ネットの馴れ合いでも何でも孤独が癒されれば、ブログの内容も少しずつプラス方向に変化するんじゃないかと思うんですが。まあさすがに、何も書かずに突然ブログを放棄してリア充になってしまった人は観測できませんけど。


投稿者 : taiyan at 2008年3月 8日 09:42

ども。前回からの長いエントリをじっくり読んでいたら、伸たまきの「パーム」シリーズに出てくる台詞をポツポツと思い出しました。
「彼が周囲から愛されるのは彼もそれを与えるからよ」
「君は自由な人間だフロイド。だが自由と孤独は背中合わせだ。私は君のそういうところが、少々気になるんだ」

甘えって言葉があざとい・図々しいとも混同して各自の体験に基づくとらえ方によってポジだったりネガだったりしますが。脳天気に云いますと(空気読まずに)わたしは甘え上手な人は劣等感がなく前向きで、強引にこちらの感情を引き出す気質の持ち主と感じていて(女性限定)昔から一緒にいるのが好きでたまりませんでした。
相手の感情を気遣ってばかりだとなかなか人に甘えるのが難しいのですが、何か別のやり方もあるよと素直に違う姿勢を見せられるので楽になって。

ナツさんの妹さんの話は、その周囲の人たちも清々しい正のエネルギーに満ちていますね。利用されただけ、とか負の経験だってないはずはないのに、へでもない感じ。でも、だから上記の引用文のように反応してしまう方もいるのでは。
ポジティブでまごうことなき健やか人間像を紹介されると、自分が否定された気分になるとか。でも他人のために労力を惜しまない活動的なコミュニティに入る気がさらさらないなら、特に気にしなくても…独りの居心地も悪くない、友達思いなんて暑苦しい、とかの意見もネットでは随分と肯定されているわけだし。
自分だけじゃないなあと共感することが多いですが。
ナツさんも再三「ネガ」だとおっしゃっているので、活き活き側の住人ではないですよね。(決めつけ)でも結局、ナツさんが何か仲間とかいそうな雰囲気だから突っかかられるんじゃないかなあと思います。あと挑みたくなる何かがあるとか。

ところで希望というか、また漫画のエントリとか読みたいなと思います。ちょっと重いテーマが続いてるので。ってこちらがお願いすることじゃないんですけど。
気になる作品がありましたら是非。お人形も好きですけどはあまり深く突っ込まれないですよね。今自分の周囲で「やっぱり山岸涼子は怖い」が盛りあがっているのでつい書きました。それでは、失礼します。


投稿者 : shuji Author Profile Page at 2008年3月 9日 20:31

> ネガティブな主張をしている人を探してきては自己投影し、「可哀相な人だから」と擁護することによって、自分の心の闇を他人に受け容れてもらおうとする心理の動き。

これは自己愛を目覚めさせるような動きであって「可哀想」だと擁護なんてしませんよ。転移のこういう技術的な形式論っていうのはあんまりちゃんと説明できないかなと思うんですけど。


投稿者 : ナツ at 2008年3月10日 00:30

●taiyanさん
「パーム」は名言の宝庫ですよね。この作者も山岸凉子と同じでかなり辛辣というか峻厳な性格なんだろうなあ、と読んでいて思うけど。
「ある朝目を覚ますと窓が開いていて、自分が長い間待ち望んだものの中にいることに気付くんです。そんな日がきっと来ますよ」
って言葉は特に好きです。前にも書いたかな。

「甘え」だけだと語弊がありますが、「甘え上手」の甘えは自分と他人の立ち位置や距離感を把握した上での「甘え」だと思ってます。「甘え」の許される関係性を構築してきたのはその人自身だろう、とも思うから、ひがむ前に「わたしにはああいう生き方は出来ないから仕方ない」と降参しちゃってるんですよね。全然嫉妬しないと言えば嘘になりますが。

>ところで希望というか、また漫画のエントリとか読みたいなと思います。
漫画とかシムピとかオタクネタも書きたいんですけど、つい一番気になる話題を優先してしまい、後回しになってます。映画・DVDも観てるのに、最近全然感想書かないから観たそばから忘れていくだけでもったいないったら。
リクエストいただけるのは嬉しいです。閲覧者さんの好みの傾向がわかるので。実際書くのは気が向いたら・・・ってことになっちゃうんですけど。
山岸凉子はテレプシコーラの第二部が始まって、単行本化が待ち遠しくてしょうがないです。

●shujiさん
「自分はこんな人こそ擁護したい」という主張そのものが、非難される哀れな対象であるという認識の前提に立っていると思うんですよ。そういう誰もかえりみないような人をあえて自分だけは救ってやるんだ、という主張。それは対象を「可哀想だ」と思う気持ちを多くの人間と共有することで、同じくらい可哀想な自分を他人に認識させたい心理だと思うんですけどね。そうでないのなら、その人と黙って友達になればいいだけだし。


投稿者 : shuji Author Profile Page at 2008年3月10日 21:04

たぶん境遇の不幸じゃないかなあ。僕はあんまり社会的にどう思われているということではなくてそのひとのことなんですけど。

いやこういうのだって才能だよ、気の弱さだってこういういいところがあるんだよとか。

でもまあわたしたちということで考えるとどういう社会が形成されるべきなのかというのは議論すべきテーマではあるだろうなあと思いますけど。


投稿者 : ナツ at 2008年3月11日 00:28

●shujiさん
・・・なんか微妙に前のコメントと話がズレてるような気がするんですけど。あいかわらず何を言わんとしてるのかよくわからないんですが、無理矢理レスしてみますね。

原因がなにに由来するものであろうが(環境とか資質とか生い立ちとか)、今現在不幸で、ここから脱出したいともがき苦しんでいるのであれば、自分でどうにかしなければなりませんよね。それは物理的脱出に限らず、精神的脱出(世の中と折り合いを付ける・自分を納得させる)でもいいのです。どうしたら自分が「楽」になれるのかが重要なポイントだと思う。わたしは大概それをテーマに記事を書いています。


投稿者 : shuji Author Profile Page at 2008年3月24日 00:17

ちょっと続きます。僕もたぶん楽になる自由になるっていうのはわかるんですけどそれはひとりでは難しいみたいに思うんですよね。いや思うというよりも実感として。

だからなんていうか相手と自分とを混ぜていくというのかなあ。まあこういうのはどういったらいいのかわかりませんけど。


投稿者 : ナツ at 2008年3月24日 01:12

●shujiさん
「ひとりでは難しい」=誰かに自分の苦悩を共感してもらい、共有してもらって楽になりたい、ということになるのでしょうが、そのためには、自分も他人の苦悩に敏感にならないと、誰ともそういう関係性は構築できないと思いますよ、という話をしてます。
そして話はループ。


投稿者 : shuji Author Profile Page at 2008年3月29日 17:48

うん・・難しいですね。なにか書こうと思ったけど思いつかないなあ。まあべつにいいんですけど。まあでもミソジニーっていうのは蔓延してるみたいに思いますね。ネトウヨっていうのもそうだと思うんですけど目的がないのかなあ。具体的でないということなのかも知れませんけど。



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